確かに君は此処に居た


一.君と一緒に

窓を叩く音にページをめくるのを止めて、私は視線を本から窓に向けた。

「…雨」

ざあざあと激しい雨が降っていた。風も強いのか、窓はがたがた揺れている。時間を見ればすでに十七時三十分で、もう本を読んで一時間は経っていた。すっかり本の内容に夢中になってしまっていたらしい。

(あーあ。天気予報の嘘吐き!)

今朝見た天気予報のお兄さんは、にこやかな笑顔で『本日は一日中、良い天気です』と断言していたはずだ。それが見事、外れた大荒れの天気。続きが気になる本の新刊が出たと図書委員の友達から聞いて読みに来たが、借りて家でじっくり読めば良かったと後悔する。

(傘、持ってきていないのになあ)

この雨脚の中、どう帰ればいいのだろうか。



「うん…?」

何度も聞こえる轟音で僕は目を覚ました。どうやらいつの間にか、眠っていたらしい。欠伸を一つして眠い目を擦って、窓に近づいてみる。窓に雨粒が激しく打ち空は時々光っては轟音が響いていた。

「雨?」

外はとても荒れ模様。雷が落ちるたびに明かりがついていないこの部屋は照らされる。

「伽夜、帰っていないのかな?」

放課後になった時に、図書室に寄るから先に帰っていてと言われ先に帰宅した。どうりで部屋がまだ、暗いはずだ。とりあえずちゃんと確認するために僕は窓をあとにして、玄関に行って見る。

「帰ってないや」

通学靴のローファがないということはまだ帰宅していない。その時、傘立てに立てられた見覚えのある傘が目を捉えられた。

「傘…持って行ってないんだ」

涼しげな水色で、開くとチューリップみたいな形になる傘は伽夜のお気に入りで、いつもこの傘を使う。思い返せば伽夜の性格上、雨が降る可能性が高くないと傘を持っていかず、折り畳み傘など邪魔になるからいつも携帯しない。しかも、今日の天気予報は晴れだと言っていたし、降水確率なんて十%だったのだから、傘を持っていっていないのは当然だった。

* 

昇降口に向かう階段を下りつつ、ため息をつく。ちらっと見る窓の向こう。雨脚はさっきより弱くなったものの、やはり完全には止んでいない。雨に濡れて帰るなんて最悪だ。予備の制服があるからいい、というわけではない。

「あ」

階段を下りきって昇降口に着くと、私服姿の大久保くんが靴箱に寄りかかるようにして立っていた。もらした私の声に気づいたのか、大久保くんは笑顔で嬉しそうにこっちに近づいてくる。

「伽夜!」
(な、なんか違くない?しかも呼び捨て…)

いつもと違う様子に思わず後ずさりしてしまう。雨のせいでおかしくなったのだろうか。そんな作用があるなんて聞いたことはないけれど。

「お、大久保くん?」
「うん?あ、伽夜。違うよ。僕だよ」
「僕?」
「そう!僕だよ、僕。自分の婚約者のことを忘れたの?」

そう言いながら、にこにこと人懐っこい笑みを浮かべ自分を指差す。一人称が「僕」で、「婚約者」。思い当たるのは一人しかいない。

「まさか……明くん?」
「そう!当たり!!」

正解だと器用に指を鳴らす。姿と声は大久保くんで、中身は何故か明くんらしい。明くんだと分かると、なるほどと思う。人懐っこい笑みも弾んだ声も雰囲気も全部明くんだ。

「なんで明くんが大久保くんになっているの?」
「ちょっと愁の身体借りてみたんだ。僕らは波長が似てるから、簡単だったよ」

ピースをする大久保の姿からは容易に明くんに見え、少し笑ってしまう。

「雨降り出したから、迎えにきたんだよ。さあ、一緒に帰ろう!」

何故かはりきっているらしい明くんは、私の鞄を持つ逆の手を引っ張って歩き出す。リズム感のある鼻歌まで歌いだした。それは明くんが嬉しいときにする癖。何がそんなに嬉しいのだろう。

「昔はよく、わざわざ雨の日に二人で外に出て相合傘したんだよ」
「あ。明くん、靴、靴!」
「うん?」

私は制止の声を上げると、明くんはすぐ立ち止まってくれて振り返る。そのまま視線が下へ向けられ私の上靴に注がれると、悟ったのか罰が悪そうに「ごめんね」と謝られた。このまま帰っていれば、白い上靴は泥まみれになっていただろう。ローファに履き替え、昇降口から出る。雨はだんだんと小雨になっていた。

「さあ、帰ろっか」
「えーと相合傘で帰るのかな?」

明くんが持っているのは傘一本だけで、必然的に相合傘で帰ることは明白である。私は正直、ためらってしまう。だって、今の明くんの姿は他の人が見ればやはり大久保くんなのだ。もし、知っている人に見られたら…という思いがある。

「じゃあさ伽夜、使って」

突然、明くんは傘の柄を私に差し出した。私は条件反射的にそれを受け取ってしまった。傘を渡した明くんは私に背を向けた。

「明くん?」
「傘は伽夜が使って。僕は濡れてこのまま帰るから。帰り道、気を付けるんだよ?じゃあね」

言い終わるのと同時に明くんは小雨の中、歩き出した。

「あ…」

大久保くんの背が明くんの華奢な背に見えた。姿がだんだん小さくなっていく。

『雨降り出したから、迎えにきたんだよ。さあ、一緒に帰ろう!』

そう言って子供のように急かして、帰ろうとした。わざわざ大久保くんの身体を借りて雨の中、迎えに来てくれたのに。手元の傘に視線を落とす。何故、明くんは傘を一本しか持ってこなかったのか。 ―――私は走り出した。



ぱしゃ、ぱしゃと水が飛ぶ音が地面を蹴る度にする。初めてこの学校が山の上にあって良かったと思った。帰りは下り坂で、雨で濡れているせいでスピードは有難いことに加速する。 見つけた。 校門をくぐってゆく。あと少し、あと少しで手が届く。

『昔はよく、わざわざ雨の日に二人で外に出て相合傘したんだよ』

確か、そう言っていた。私はもちろん、記憶がなくて返事をしそびれてしまったけれど、楽しそうにそう言っていた。鼻歌まで歌っていたのは嬉しいことがあるからで、傘を一本しか持ってこなかったのも…。

「明くんっ!」

思いっきりそう呼んで、制服のシャツを掴む。やっと追いついた。明くんは歩くスピードがどうやら早いらしい。シャツを掴んだまま息を大きく吸って整える。運動不足のこの身体に短距離ダッシュは正直こたえる。わき腹が痛い。

「伽夜?」

名を呼ばれ顔を上げると、明くんは驚いた顔をして私を見ていた。

「あ、…あのね…」

なんて言えばいい? ごめんね? それとも迎えに来てくれてありがとう?
―――違う。言いたいのはそんな言葉じゃない。

「ねえ、相合傘して帰らない?」

顔を上げると、明くんは私の心を見透かすように穏やかに微笑んでいた。そう、この言葉の通り。一本しか傘を持ってこなかったのは、私が明くんをまだ覚えていた幼い頃の昔のように相合傘をするため。

「うん、もちろん!」

私はシャツから手を離して、手元にある傘を二人の間でさした。