一仕事終えた彼は気分転換に宛もなく散歩をしていた。今日の大仕事を終えた彼に煩く言う者は居ないため、後先を考えずに伸び伸びとゆっくりと好きなように時間が使える。否、そもそも彼に煩く言う者は存在しない。教会に帰る以前、彼が居た場所は政治文化等の中枢機関に当たるため華やかな雰囲気に包まれていた。その雰囲気に晒されていた彼が赴任してきたのは未だに自然と共生することが息づいた田舎の村。田舎と言うと聞こえは悪いが、悪い場所ではない。村人は皆穏やかな性質でぬるま湯のような環境と称すのが相応しい場所でのんびりと過ごすのは悪くない。むしろ、彼は中央よりも此方が自分の性格に合っているため気に入っている。
鼻歌を口ずさみながら気の向くままに歩いていると、耳朶を打ったある音に彼は足を止めた。聞こえてくる方へ耳を傾ける。葉が擦れる音、鳥が鳴く音に混じって聞こえるのは――人の声。
此処の暮らし上、森の中で人の声がするのは珍しいことではないが興味を引かれ何事だろうか、と歩み出す。木々の間を器用に縫ってゆくと、急に視界が広がり視界に覆う光に目を細める。視界を庇うように手で遮って目をゆっくりと開く。地に降り注ぐ陽光を鏡のように受けて煌めく湖面に目を細めた。鮮明になった視界に映ったものを確認すると彼は声をもらした。
「……朔チャン…?」
おずおずと自分に向けられた視線が交差した瞬間、明らかな喜色
を湛えて朔はふんわりと笑った。彼は朔へと出しかけた足を止め、どうしたの?と問いかけようとした言葉を嚥下し周囲を見渡す。青々と茂る木々、そよぐ風の音、澄み切った湖面、自然に囲まれたこの地に居るのは朔と彼だけだ。笑いかけられたのは他ならぬ彼自身。理由が分からない彼は無邪気な笑みを湛えたまま手を伸ばしてくる朔を凝視したまま動けない。
「…やっと…」
彼へと伸ばされた手が彼に触れる前に空を切った。
「風邪ですね」
廊下で腕組をし待機していた彼に部屋から出てきた医者は一言そう告げた。医者は薬を彼に渡し、彼は医者に金を渡すと医者は一礼をして帰って行った。その背中を見送った彼はそっと部屋に入った。踏み込んだ部屋には生活する上で最低限の物しか用意されていない。小さな机の上に薬を置き、腰かけて溜息をつく。日頃あまり運動をしないためか、腕が痛い。腕を擦りながらベッドに横たわる朔の顔を覗き込んだ。あの場所で朔は彼の前で倒れてしまった。
倒れた朔は意識を飛ばし、呼びかけても起きる事がないどころか身体が火照って発熱していた。そこで彼は教会まで担いで来た。そして教会に手伝いに来ていた女性に朔の着替えと身を清めるように頼み、寝かせる場所が彼の部屋しかなかったために此処に運び医者を呼んだのだった。診察を兼ねて傷の手当てもしてもらったようで、頬に貼られた大きなカーゼが痛々しい印象を与える。
「あーあ、こんなに傷をつくっちゃってさ。嫁入り前なのにねえ」
嫁、と口の中で転がす。急に昼間に初老の男性から聞いた話を思い出した。
『あの子は婚約者を事故で亡くしたんじゃ』
一緒に出掛けた先で起きた事故。それが最愛の人の生命を奪ったのだと男性は語った。最愛の人を失くすという話は神父をしていればいくらでも耳にする。遺族となった者たちは哀しみに捕らわれて嘆く。だが、朔は違った。
『出来ません』
婚約者が埋葬され、その墓に掲げる花輪をかける役目を拒絶した。嘆くどころか感情のない視線を向けまま佇んで、そして踵を返して場を去った。そんな言動をする者は今まで見たことがない。涙することも慟哭も嗚咽することもなく、拒絶だけして去った者など。
――…やっと…裁かれるの
倒れる前に発せられた言葉を思い出す。満面の笑みと期待の眼差しに動けなくなるほど強く絡め取られた。その言動は葬儀の言動から連想できないものだった。何故、そう言ったのか。何故、苦しんでいるのか。そんな事を彼は知らない。そう考えていると時刻を告げる教会の鐘が彼の思考を現実に引き戻す。随分、長い間考え込んでいたようだった。
「無理やり起こすのが賢明かな?」
病を治すためには睡眠と栄養だが、今はそれを促すために投薬する必要がある。食が細くなっている可能性が大きいため喉を通りやすいように粥を用意してある。胃の中に何か入れて薬を飲ませるため、起こそうと細い肩に手を伸ばす。
「――」
朔が苦しげに顔をしかめて呻く。朔の口から微かに紡がれたのは朔の婚約者であった冥の名。急に触れてはいけない気がして伸ばしかけた手を引っ込める。いつの間にか、窓の向こうには欠けた月が昇っていた。降り注ぐ月光に照らし出された朔は棺に埋葬された人のようで、彼はベッドの脇にある明かりを灯す。暖かい光のお陰か、朔の顔色が健康そうに見えるようになって彼は何故か嬉しくなった。
「朔チャンは裁かれたいんだね」
冥が事故死したのは自分だと朔は責任を感じている。だが、誰も朔を責めず可哀想に、と同情して慰めようとしている。けれども乾いた心には何の癒しにもならない。むしろ、徐々に傷が広がっているのだ。
「でも朔チャンは悪くないんだ。けれど望むなら…僕が叶えてあげる」
朔の頭を撫でながら、彼は胸元の十字架を強く握った。