1.突然の訪問者は愛を告げる
午後五時三十分。
古嶋伽夜は上靴からローファへと履き替え、昇降口の正面に立つ時計を見上げれば、そんな時間だった。いつも帰宅する時間より約一時間三十分早い。何より放課後に行われる課外授業がないお陰だ。つくづく急用で帰った先生に感謝だ。それでも今日に限って日直で、その最後の仕事を終わらせたせいで下校する生徒は居ない。
グランドでは運動部の生徒が己の技術を高めるために練習に打ち込む姿が見受けられる。そんな光景にも目にせず、伽夜は早く帰宅するべく肩に掛けた無駄に重い通学鞄を持ち直し歩き出した。この辺りは、元々山だったせいもあって平地より高い位置にある。そのため、昇降口から赤レンガ造りの正門を越えた並木道までずっと坂が続いている。
「疲れた…」
一日の疲れを背負いつつ、坂を下っていくとローファの下でかさっ、とたてた軽快な音で足を止めた。
(…もう散り始めているんだ)
坂に沿って植えられた桜樹の枝に目を向ける。これはこの学校が作られた時に植えられたものらしく、まだその背丈は伽夜の頭一つ分だけ大きいくらいで低い。先日、赤く紅葉した葉は早くも秋風に吹かれ、地面に落ち始めている。吹いてくる風にも冷気が含んでいて季節は晩秋から冬へと移り変わろうとしていた。
(あ、ちょっと楽しいかも)
伽夜は落ち葉の上を歩き始めた。歩くたび聞こえるその音も、かさかさ…と落ち葉が波のように動くのも疲れを忘れさせるようで楽しい。忘れている記憶がその音に惹かれているようで、伽夜は夢中で葉を踏む。
「…え?」
だから、気づくのが遅かった。葉を踏むことに夢中になっていた伽夜が、前方の人影に気付いてはっと視線を上げようとするのとアスファルトに尻餅をつくのはほぼ同時だった。
「…いた…い」
アスファルトに打ち付けた腰にじーんと鈍い痛みが響く。余所見をしていた伽夜はいつの間にか校門を少し越え、誰かとぶつかったらしい。が、痛みの方が勝ってぶつかった相手に謝る余裕がない。
「……伽…夜?」
痛みが大分薄れ、反射的に返事をした伽夜はようやく視線を上げた。白いTシャツに黒いパーカー、ジーンズ姿。
華奢
な体格ではあるものの、おそらく少年だ。落ちる太陽を背にした少年は野球帽を被っているせいで、顔に影が落ちて誰だか判定できない。
「大丈夫?痛かったよね」
謝罪を述べる少年は流れる様に亜然としている伽夜の手を取ってひっぱると、伽夜を立ち上がらせた。
「腰、痛くない?伽夜」
「え、あ…はい。大丈夫です」
見知らぬ人に再び、自分の名前を呼ばれて戸惑う。声から誰だっただろうかと脳裏の記憶を探るがやはり
出てこない
。出て来ないとすれば、伽夜が思いつくのはたった一つだ。それを思った矢先、伽夜は唇を噛んだ。
「それは良かった。ねえ…僕のこと、覚えてないよね?」
「!」
少年はそう言うなり、野球帽をゆっくりと外した。無造作に伸びた薄茶の髪が夕方の光に溶けた光景が綺麗で目を奪われる。夏の名残を感じさせない白い肌、整った顔や全体的に華奢な身体は世間的に『可愛い』と言われるだろう。それは正しく、少女と見間違えるほどだった。
(だ、れだろう?……やっぱり覚えてないや。それとも本当は知らない人?)
目の前の少年の容貌を見ても知人だったか記憶を探るが出てこない。普通ならば、こんな容貌をしていれば真っ先に思い出せるはずだ。しかし、伽夜は思い出せない理由がある。
「…これも覚えてない?」
伽夜より細そうな左指にはシルバーリングがはめておる、真ん中にはブルーダイヤが嵌め込まれているデザインは中々凝ったものだ。
「…それ…っ」
伽夜が驚いた声を漏らすのも仕方なかった。それは紛れもなく自分が持っているものと同じモノなのである。いつも身につけていて、今もチェーンに通して首にかけている。伽夜の反応を是と見なしたのか、少年は笑みを浮かべた。
「好きだよ、ずっと昔から今からも。…たとえ、僕を覚えていなくても」