周りの光景を見下ろすように聳える高等部は、かつて山だった名残を留めるように緑が多い。緑に抱かれたその敷地面積は広く、ほんの数年前に改装された赤レンガ造りの校舎はレトロな雰囲気を醸し出している。付属の大学まである中高一貫校の私立高ゆえに、その施設や施される教育は県下でも評価が高い。生徒も保護者も言うことなしの学校だ。しかしその高等部の赤レンガの正門へと続く並木道は些か急な傾斜である。高等部には正門のみしか校舎に行く術がない。だから生徒は嫌でもこの坂を昇るという行為を朝から強いられる。それだけが生徒たちが高等部で唯一、気に入らない点であった。
「伽夜!おはよう」
そんな坂を重い荷物を抱えてあくまでゆっくりと上る伽夜を急かすように、ちりりんとベルの軽快な音が響く。それと共に聞こえた声に振り向けば、見知った顔がそこにあった。
「なんだ、由宇か…おはよ」
「なんだとは何よ!」
自転車から降りた吉原由宇は、そのショートカットの短い髪を鬱陶しそうに耳にかけると不服そうな視線で伽夜を見返した。
「なんだとは何よ?一体、誰を期待したわけ」
「別に誰も期待してないよ。期待するほどの人って私には居ないもの」
由宇と伽夜は中等部からの付き合いだ。歩き始めた伽夜の後を由宇が自転車を押してついていく。伽夜は朝には弱い。午前中は低血圧特有の気だるさが身体を蝕んでいるため、きついのだ。
「何言っての!私たち、まだ麗しの十八歳の女子高生よ。若い、若い」
「…そう?もうすぐ二十歳なのに」
「もうすぐ…?伽夜ってさ、たまにおばさんっぽいよね」
もう諦めと呆れが含んだ眼差しを向けてきたのを知らないふりをする。
「そんなに老けてないっての」
口先ではこう言ってはいるが、実は自覚はある。渋い色の陶器を好んだり、ジュースやお菓子よりお茶や和菓子が好きで、密かに時代劇が好きだったりする。早速、今週末にある時代劇へと心を寄せ始めた伽夜に由宇は思い出したように「あ」と口にした。
「そういえば知ってる?昨日うちの学校じゃない子が昇降口前で倒れていたんだって」
「…へえ、編入の下見じゃないの。稀にそんな人見掛けるし」
その校風や教育に惹かれて転入してくることは珍しくない。転入してくる前の下見に来る子を入学してから度々、見かけたことがある。
「そうかもね。とりあえず生徒が発見して、先生に知らせて救急車呼んだらしいよ」
「それはさぞ、大騒動だったろうね」
「それがさ、後輩がその場に立ち合わせたんだけど、倒れた子が少女っぽい美少年だったんだって〜」
(…少女っぽい美少年?)
その由宇の言葉に引っ掛かりを感じた伽夜は由宇へと視線を向ける。楽しそうに語る由宇の横顔を見つつ、ふと昨日の記憶が蘇る。
『好きだよ、ずっと昔から今からも。…たとえ、僕を覚えていなくても』
そう告げた少年。その言葉は伽夜にとって理解出来ないものだった。少年の告白の直ぐ後、しばらく唖然としていた伽夜は我に返るなり「ごめんなさい!」と一言謝って逃げるようにその場を去った。
(…違うでしょ)
倒れた少女っぽい美少年とあの少年とが同一人物とは限らない。そう思うも、胸の引っ掛かりは易々と解けるものではない。
「その子なんで倒れたの?」
「さあ?でも胸を押さえて倒れてたらしいから、心臓発作とかじゃないかな」
「心臓発作…」
生命の中枢である心臓が痛むのはどのくらい痛いのだろうか。痛みを想像するだけで嫌な感じで、伽夜は眉を寄せた。
「ねえ、予習してきた?」
「予習?あ、数字ね。あんな意味が分からない問題、分かるはずないじゃん」
「だよね。由宇が分かるはずないか。私より数字駄目なのに」
「その通りだけど…何となく失礼だなあ!」
こら!と怒った由宇が手を振り上げ伽夜を叩こうとするのを交わす。笑いながら攻撃を避けつつ、思い浮かんだ考えを思考の深い所へ追いやった。
*
朝の教室はいつも賑やかだ。今日はいつもより賑わっているのは気のせいではない。意識したわけでもないのに、女子でグループごとに固まって噂話に華を咲かせているのが聞こえる。その内容が由宇から聞いた、校内で倒れた少年の話というのがますます胸のしこりを大きくするように感じる。
(…賑やかだなあ)
噂は一人歩きをする。人から人へと伝わる際に人々の好奇心ゆえに脚色されて元の姿とは違うものへ変化する。あくまで事実ではないことを語り合って、何が楽しいのだろうか。それに好奇心だけで語るのも伽夜は好きではない。由宇や実亜と話す分は良い。二人は好奇心むき出しでいかにも第二者のように語らず、さらっと話題に上がって終わってしまうからだ。
「おはよう、実亜」
「おはよう、伽夜ちゃん。今日はどこ?」
由宇と同様に中等部から付き合いの上原実亜は学年の中でも成績優秀で、毎日学校に来るとこうやって実亜に教えてもらう。早速、実亜の机上は数学の教科書と由宇のノートが広げられている。支度を終え、先に此処に来ていた由宇がそれらに視線を落として「全然、分からないもんね」と愚痴を零す。
「問い三と…あと問い七かな」
「うん、由宇ちゃんと被ってるね。とりあえず、これはね…」
細めのフレームの眼鏡をかけた実亜はゆっくりと解法を説明する。パーマをかけたわけでもないのにふわふわとした髪は密かな伽夜のあこがれで、その雰囲気も和やかな少女だ。
(…数学なんて大嫌いだ)
説明をしてくれる声をゆっくりと自分の中で噛み砕いて理解をしようと勤めるものの、容易にはいかない。それでも授業中に当たる可能性が高いために、ほっておくことも出来ない。伽夜は気を取り直して集中し出した。
*
「ねえ、知ってる?昨日倒れた謎の美少年!」
「…生憎、知ってるけれど」
解法を教えてしばらく経った後、伽夜たちの元にクラスメイトがそう言って来たのを由宇はすんなり頷いた。主語が無くとも理解は出来る。大抵、噂好きの女子たちは好奇心を糧に決まり文句を口にして話し出すのだから。「何が?」と実亜が目を丸くする横で伽夜は小声で「あとで説明するから!」と小声で言うと実亜は頷いた。
「なんだあ…まだ知っていないと思ったのに」
残念そうに口を尖らせるのはこの子の癖なのだろう。そこまで残念そうにしなくとも、噂を知らない人ならまだ他に居るはずだ。いっそう、学校中探せばいいのにと思う伽夜の思考とは外れてクラスメイトは含みのある微笑を浮かべた。
「じゃあさ、これ知ってる?…倒れた美少年、搬送先の病院で亡くなったらしいよ」
「え?」
一瞬でも疑問を含んだ表情をしたのが悪かった。クラスメイトは伽夜の反応に気付き、嬉しそうに声を弾ませた。
「可哀そうだよねえ」
声に悲しみなど籠もっていない。それに対して少しカチンっとなったが、何も言わずクラスメイトから視線を外した。どくどくと鼓動がひとりでに速くなって、何故か少なからず動揺している自分が居るのを感じる。何故、そんな風に感じるのか分からない。
「あのさ、その子ってどんな格好していたの?」
「伽夜?」
珍しく伽夜が聞いたので、由宇と実亜は不思議そうに視線を向けてくる。同じく、聞かれると思わなかったクラスメイトも目を丸くしている。
「…それは知らないけど、田口さんが見たって言ってた。聞いて来ようか」
「いや…いいよ。自分で聞く」
「ううん、聞いてきてあげる。だって古嶋さんたち、予習中だし。待ってて」
伽夜を制したクラスメイトは目撃者だという田口さんの所に向かって行った。その背中を見届ける伽夜に由宇が声をかける。
「珍しいね、伽夜が噂に興味持つなんて」
「うん、噂は嫌いだよ。でも…今回は気になって。ひょっとしたら、昨日の子かも」
「あ、あの告白してきた子と?」
うん、と大きく頷く伽夜。噂の少年と昨日の少年が同一人物なのか、今のところ分からない。でも、確かめなければと思う。それだけ、だ。
「そっか。昨日の子と同一人物っていう可能性もあるもんね」
「………うん」
頷いてノートに視線を落として問題を解き始めた伽夜を由宇は心配そうな眼差しを向けていると数分間、放置され場を見守っていた実亜がゆっくりと口を開いた。
「ねえ、二人ともさっきから何を話していたの…?」
二人は思い出したようにお互い顔を見合わせて、状況を知らない実亜に説明し出すのだった。
*
短い休み時間。生徒が行き交う賑やかな廊下を足早に歩きながら、伽夜は朝のクラスメイトと交わしたやりとりを思い出していた。あの後、クラスメイトはすぐに田口さんを伽夜たちのところへ連れてきて証言してくれた。
『白Tにジーンズで黒いパーカーの茶髪頭だった。近くに野球帽も落ちてたからきっとあの子のものだと思うよ』
証言と昨日の記憶が一致した。しかも、田口さんは伽夜にさらなる情報をもたらしてくれた。
『早川先生が男の子に付き添うために、救急車に乗って病院に行ったよ』と。
その事実を確かめるために職員室へとやってきた。噂は一人歩きをするから事実が知りたいのなら、自分で聞くことだ。
職員室は基本的にあまり入りたくない場所の一つだ。入る前に風紀をチェックしないといけないし、入ったら各席に座る先生に挨拶をしなければならない。それが面倒だったが、話を聞くためにドアを開けた。
「早川先生」
数人の教師とすれ違い辿り着いた、職員室の窓側の日当たりがいい席。ジャージ姿の早川先生は丁度授業がないらしく、新聞を見ながらコーヒーを飲んでいた。伽夜のクラスの体育担当をしている。背後から声を掛けると首をひねって振り返った。
「なんだ?」
伽夜の姿を確認すると、早川先生は椅子ごと伽夜へ向き直った。
「昨日…倒れた子はどんな格好でした?」
あくまでもこれは最終確認だ。
「全くまた、昨日のことか。お前らは噂好きだな。俺に聞きに来る行動力を別の事に生かせよ」
「……」
この様子だと確認するのも難しい。先生に生徒が好奇心に身を任せ聞きに来たのだろう。伽夜はとりあえず「すみません」と詫びを口にし、頭を下げ踵を返した。貴重な休み時間を返してほしい。たださえ予習がまだ終わっていない。
「古嶋!」
呼び止められ、振り替える。振り替えれば、先生は新聞の代わりにファイルを手にしていた。
「お前は下の名前、『カヤ』なのか?」
「そうですが」
「…悪い。昨日の子は古嶋の知り合いだったんだな」
急に態度が謝罪へと変わった。ぱたんとファイルを閉じ、机に置かれる。表紙に『3-1生徒個人情報』と書いてあったため、その中にある伽夜の情報を早川先生は見ていたと言える。
「あの少年、意識が無くなる前にお前の名前を何度も呼んでたぞ。心臓病だったらしいな。本当に残念だ」
「私の名前を呼んでいた…んですか」
「ああ。掠れるような小さい声で『カヤ』と何度もな」
目を伏せコーヒーを飲む先生は本当に悲しそうにしている。
「有難う御座いました」と礼を述べて職員室を後にする。
(本当にあの子、死んじゃったんだ)
倒れた少年はあの少年だったと確信することが出来た。だから、なんだと言うのだろう。結局、自分は少年の死を確かめて何がしたかったのか。でもそれを聞いたとき、何とも言えない焦燥感があった。ひたすら確かめなければ、と。
「…そっか」
小さく呟いたその声に少なからず、悲しみが滲み出ていた。