確かに君は此処に居た


22.開きかけた扉は再び鍵をかけられた

瞼を開けると、肌に吸い付く不快感に襲われた。薬のお陰で大分熱は引いたようだ。パジャマを探ると大量に汗をかいていて着替えよう、とまだ痛む頭に刺激を与えないようにゆっくりと身体を起き上がる。

「…明くん?」

明がベッドの傍らの床に丸くなって寝ている。どうやら、ずっと傍に居てくれたようだ。猫のようだと伽夜は微笑を浮かべた。ベッドの上から薄明かりの影が落ちた寝顔を覗き込んでいると、思考の隅から声が囁き始めた。ずきん、ずきんと頭が軋む。普段ならば振り払うものの、風邪で浮かされた意識は受け入れる。





白い空間に生命を維持するための規則的な音が響く。そこに大人に混じって幼い伽夜は居た。多分、面影から小学校の時だ。白い帽子、白い服を着て消毒をして何もかも厳重にされた部屋のベッドに横たわる少年――明の顔を覗き込んでみると、普段の眠った顔よりも苦しげな表情に見える。

『もう大丈夫だからね』

よしよしと撫でられて、大人達は伽夜を残して去ってゆく。力なく置いている明の手を握れば、微かに暖かい。それが生きていることを感じさせる。

『…大丈夫じゃないよ』

眠っているのにも関わらず苦しそうなのに、大丈夫じゃない。普段の発作は此処まで酷くない。集中治療室に入らなければ、生命を維持できないほどに追い詰められている。神様、と小さく紡ぐ。感情に蓋をすることが出来なくて涙が溢れる。 自分が甘かったのだ。

『私が悪いの』

 罪悪感でいっぱいになる。自分がしっかりしていれば、明を追い詰めずに済んだ。明の顔が苦しげに歪んだ瞬間、ピピーッと高い音がけたたましく響き渡った。嗚呼、知っている。これは生命が消える寸前の最後の警告音。バタバタと大人達が入ってきて伽夜を明から遠ざける。手のひらの微かな温もりが消え、伽夜は離れまいと手を伸ばす。嫌だ、嫌だと言葉が喉につかえて発せられない。

 「此処からは駄目ですよ」

優しい声が制止をかけ、鮮明だった色彩が焼かれて灰になるように散らばる。舞い上がる残像に手を伸ばして掴む前に落ちた。





朝、伽夜の家だけれども愁は普段と同じように家事に勤しんだ。無難に洗濯して良さそうな範囲で洗濯をして、伽夜用の朝御飯と昼御飯を用意すると時刻は七時を過ぎていた。あと三十分くらいに此処を出れば、充分に学校は間に合う。用意した朝食を取っているとリビングで朝のニュースを見ていた明が突然、血相を変えてソファーから立ち上がり廊下へと向かった。愁は何事だろうかと明の後を追う。伽夜が起きたのか。もしかしたら、伽夜の具合が悪くなったことを察知したのかもしれない。それはそれで大変だ。

「何をしてるの?」

明は伽夜の部屋前に居た。扉を開けたのにも関わらず、部屋に入らず前を見据えている。愁は明の肩越しに部屋を見て、表情を強張らせた。伽夜が横たわるベッドに一人の青年がにこやかな笑みを浮かべ腰掛けていた。宮司の格好をして飄々とした青年は生活空間からは逸脱して見える。

「おはようございます。嗚呼、やっぱり師匠でしたか。久方ぶりですね」
「なんで…此処に居るわけ?」
「ただ私はこの子の願いを叶え護っているだけですよ」

この子、と慣れた手つきでベッドで眠る伽夜の髪を梳く。それを見た明は眉を寄せて低音で言葉を吐き捨てるように紡ぐ。

「今すぐ帰れっ!」
「あ、そこの少年は師匠と同じですか」

戸締りをしたのに何故、此処に居るんだと自身に問う愁に青年の視線が向けられ、愁は固まった。目から逸らせずに妙な緊張感が肌にまとわりついて鼓動が早くなる。そこで気が付く。ベッドに座す青年は人間のように見えて、人間ではない。 青年を視ると、おぼろげに満開に咲く桜木が視える。

「…精、霊?」

精霊に見える。小さく発した言葉なのに愁の言葉が聞こえたのか、青年は伽夜の髪を梳く手を止め立ち上がって歩み寄って来た。近付く青年に明は不快感全快で睨むが、愁は足が竦む。

「成程ー…だから、どうりで大きく干渉されているんですね。とりあえず師匠。あの子を想うなら、在るべき場所に行った方が良いですよ」
「何の事?」
「だから、此処に居無い方があの子のためです」

愁は二人を見比べる。会話の内容からして知り合いなのだろうか。そう思っていると青年は再び愁に視線を向けた。

「私はちゃんと師匠の弟子ですよ?」
「そう…なのか?」
「師匠になった覚えも弟子にした覚えも名前も名乗られてないけれど…面識はあるよ。一応ね、深見」
「深見って言うのか」
「視たんですか」
「名乗らない方が悪いよ」
「あれ、名前言っていませんでしたっけ。残念ながら、深見という名は昔の名です。今の私は……ラシアですよ、師匠」

名乗るまでの僅かな時間、笑う目に影が滲んだ。それは一瞬程で明も愁も気付くことはなく、ラシアは笑う。明は興味なさそうに「じゃあ、ラシア」と改めて話を切り出す。

「何、していたわけ?伽夜を害するなら許さないよ」
「今、師匠が此処に居ることであの子の願いを阻害しているので、それを補正しに来たんですよ」
「…どういう意味」
「そのままの意味に決まっているじゃないですか。害するのではなく、護っているんです。私よりずっーと若いんですからしっかりしないと駄目ですよ」
「僕はしっかりしてる。ねえ、伽夜の願いがって言っていたけれどどういう事?」
「えー言いましたっけ。数分前から物忘れが激しくて」
「随分、都合が良いボケだな」
「それ程でもないですよ」
「決して誉めてねえからな!」
「ふふ、有り難う御座います」

誉めてねえ!と突っ込む愁に明が咳払いをする。

「僕の質問に答えて」
「いくら師匠でも、それは駄目です。これは依頼者と私との契約なんです」
「契約…?それは前に言っていたこと?」

問う明にラシアは重い空気が流れていると感じているはずなのに、相変わらずにこにこと笑うだけだ。

「…どういう意味だよ!」

答えないラシアに明は押さえていた怒りを声音にのせて怒号を上げた。かたん、と音がして三人は音がした方へ顔を向ける。寝ていた伽夜が身体を起き上がらせて目を擦りながらこちらを見る。

「…あ」

そこに居たラシアの姿がない。それに気付いた明と愁は辺りを見渡すが、すでにない。きょろきょろとする二人を歩み寄って来た伽夜が不思議そうに「どうしたの?」と尋ねたが明は強張った笑みを浮かべて「何でもないよ」と返事をした。 




教室の席は伽夜がかかってしまった風邪が蔓延している為、たださえ全校の中でも人数が少ないクラスなのに少なさが目立つ。隣の空席を見て、今頃どうしているのか気になる愁は先生にばれないように携帯を操作して伽夜にメールを送る。愁は一旦引き受けた以上、責任をもってやるしかない。メールを送信し終わりふと窓の向こうへ視線を向ける。見えた空は青く爽やかだ。しかし、愁は表情を歪めた。空模様を見て、愁の感が夕方に雨が降るような気がした。早く帰ろう、しかし今日の夕食をどうするか考える。

「ねえ、愁」

呼ばれて横を見れば朝から何処かに行っていた明が伽夜の机に座っていた。表情が晴れていない気がするのは気のせいではない。明は教卓の前で黒板に書いた事項を説明する教師を眺めながらラシアのことを語り出した。

「あいつはね、ある日ひょっこり現れたんだ。外を眺めていたらいきなり話しかけられて、それから何回か話した程度の知り合い。それで、聞いたことがあるんだ。桜の精霊なの?って」

明も愁同様に、ラシアを視た時に桜の木が視えたらしい。ただの桜の木ではなくて、闇に浮かぶように立ち桜木自体が発光する光景。不思議な光景だが幾ら非現実でも視える愁にとっては紛れもない現実である。

「そしたらさ、こう言ったんだ。『私は願い桜の精霊です』って。願い桜って何だと思う?そのままなんだ。あいつは…本来叶わない願いを叶える精霊なんだってさ」

授業中であるため声にするわけにもいかず愁はノートの片隅に『どういう意味だ?』と綴ると、明はそれを目を細めて見た。

「願いって叶う願いと叶わない願いがあって、あいつは叶わない願いを叶えるのが役目なんだ。願いを叶えるためには代償が居る。それってね、その人の魂なんだ。願いの大きさによって魂を貰う量が違うって言っていた。そして本来叶わない願いを叶えるのは資質と強い想いが居るんだ。願いを叶える資格がある者の元にあいつは現れる」
『つまり明も俺も資格者なのか』
「違うよ。僕らは防人だから」
『さきもり?』
「そう、防人。知らず知らずのうちに周囲にいる霊を除霊したり、未来を予知したりとか数奇な能力があるんだって。 人間ならざる者の方に性質上近いから人間として欠陥があって人でありながらも人から遠い存在だから「防人」と呼ばれるらしいよ。現に僕らは余計なものまで視えるでしょ?」

現に視えるから、愁には明が視える。二人は属する世界とは別の同じ世界を幼少から視ている。他者には認識出来ないことを認識する。この事実は愁の心を抉る。視たくもない世界。でも視なければ生きて行けない。明は伸ばしていた足を抱え、しばらくしてぽつりと呟いた。

「認めたくないけれど、多分伽夜は……あいつの依頼者になったんだ」

驚いたせいで、ぽきっと愁が手にしていたシャーペンの芯が不吉の予兆のように折れた。











written by 恭玲 site:願い桜