今更、分かりきっている問いをされて伽夜は眉を寄せた。伽夜を此処に閉じ込めていることが許せないことだと明は知っている。ましてや、伽夜はそれを嫌っていることなど理解しているのに。嫌いだという意味を込めて、頷く。
「どのくらい?」
その程度は好きという感情と同様にどのくらい深く想っているのかがある。そんなことを聞いているのだろう。
「とても」
とても嫌い、大嫌い。そんな感情は本来抱かない方が良いに決まっている。何かの感情を持つのは個々の自由で、伽夜は憎しみという感情を自由を奪う行為をされた果てにそれを抱くしかなかった。第三者から見れば、伽夜はなんと可哀想な人だと憐れまれるだろうか。それとも憎しみという名の感情を持った浅はかな人だと呆れられるだろうか。負の感情を持ったところで今の現状から解放されるわけではない。負の感情は様々な形で連鎖してゆく。だから世はいつも争い、悲劇、欲望が絶えることはない。それらと引き起こすものと同様の元凶の種を持ってしまった自分も、嫌いだと思い出した時から嫌いになった。
「じゃあ、少なくとも伽夜の世界に僕の存在は確かに在るんだね」
爽やかな笑みは幼子のように澄んでいるが、纏う気配が重く黒い。
「愛する、好き、慈しむ、大切にする、尊い感情と憎む、恨む、妬む、汚い感情は結局…それを誰かに感じている時点で自分をその人に与えているんだと思うんだけれど、どうかな?」
「どうかな…って…明くん!…ごほっ」
喉が噎せて頭が重い。少しだけ動かしただけで痛むのが不思議だ。嗚呼、憎い。
「嗚呼、駄目だよ!ちゃんと寝てないと!今流行りの風邪なんだから。それに声も出しちゃダメ」
大流行した風邪は友人達もクラスメイトもかかり、受験が迫る受験生に約一週間もの期間を寝て過ごさせる事態となった。お陰で現在高熱で身体は火照り思考は朦朧として、声も枯れてしまっている。
「嫌いって明くんじゃ…」
「だって僕を目の前に言われると、僕に言われてるみたいなんだもん。それより少し寝て。子守唄歌ってあげるから」
ベッドに腰かける明は困ったように眉を寄せ、歌を歌い出す。伽夜は小さく頷くと、歌声を耳にしながら朦朧とする意識を委ねて目を閉じた。しばらくすると寝息が聞こえてきて、眠ってしまったようだ。
「薬を飲めば治るけれど、でも困ったねえ…充さんが東京の息子さんの所に行っているから。一週間だっけ…?ということは、あと今日を含めて五日か」
充には社会人になった息子が居て、丁度二日前から東京へ行っている。何でも、息子が親孝行をしたいということらしい。いつもお世話になっているため、了承したのだ。
「…僕が触れたら良かったのに」
触れようとした手は掴むことなく、すり抜けて弱音が零れる。でも、それは仕方ないのだと本人は分かっている。
「伽夜の傍に居るため にはこうするしかなかったからね」
目を伏せた明は伽夜の部屋から姿を消した。
*
放課後のホームルームが終わり、荷物を積める愁の目の前に明は現れた。朝から学校に来て居なかった為、伽夜の傍に着いているのだと予測していたが今の時刻に何故現れたのか愁は疑問に思った。
「あのさ、今すぐマッハで帰宅してボルトも驚く速さで泊まりの用意してくれる?」
「はあ?」
声を出すと、一気に視線が集まった。焦って咳をしてみれば、視線は散る。愁は明に顎で廊下を示し、足早に教室から去る。人気がないのは屋上に繋がる階段だ。
「で、何だよ」
「だから今すぐマッハで帰宅してボルトも驚く速さで泊まりの用意しろ」
「俺の聞き違いでなければ、さっきのは疑問系だったのに命令系になっているんだよ!それに泊まり?ボルトって誰だ」
「ボルトも知らないの?世界一俊足な人だよ。それよりも、余程祟られたいんだね。忍者ってどちらかとエムなんだねえ…」
「頼むから…説明しろ」
明の説明を聞くだけで一日の疲れが込み上げる。項垂れる愁に明は溜め息をついて、ゆっくりと説明をし始めた。
「伽夜が質の悪い風邪で休んでるのは知ってるよね?実は充さんが息子さんの所に行っててさ、伽夜を看病してくれる人居ないんだ。愁は家事出来るみたいだし」
伽夜が一人暮らし同然の生活をしていることを愁は知っている。納得するが、肯定するわけにはいかない。
「でもな、明。俺は男だぞ」
「何?実は女の子なの?僕は伽夜一筋だからね」
「んなわけねえだろ!古嶋は女で、世間的に駄目だろ」
寝込む伽夜の家に愁が行くのは悪い。急に周囲の空気が重くなる。考え込んでいた愁が顔を上げた時には明は黒い笑みを湛えていた。
「病で動けないのを良いことに如何わしいことを僕の伽夜にする気?そんなことをしたら、何度生まれ変わっても祟って生まれてきたことを後悔させるよ」
「するかっ!絶対、するか!」
「顔、赤いんだけれど?」
「赤くねえ!」
「もう仕方ないから忍者は僕がずっと見張ってるよ。ほら、分かったら早く行くんだ!」
行かなければ、祟るという明の文句は本気だろう。早く、早くと言う明の声音が焦っている気がした。
(嗚呼、そうか)
幽霊の明は何も出来なかったんだと悟る。目の前で苦しんでいても、差し出す腕はない。意思疎通が出来ても触れられないのだ。ただ見ていることしか出来ない。それに耐えられなかったのだろう。だから頼れるのが自分しかいなかったのだ。
*
「おい」
低い声が呼ぶ。浮かび上がる意識は心地良さに抵抗するが、声が大きくなって耳元で弾けた。「起きたか」とため息をつかれた。そのベッドの傍らに立つ気配に伽夜はゆっくりと視線を向けて、その姿を確認するなり目を見開いた。名を呼ぼうと空気を多く吸い込めば、咳が代わりに出た。
「大丈夫か?」
屈んで顔を覗いて来る。学校で見るよりも表情が柔らかく見えるのは熱のせいだろうか。
「…大久保くん…?」
名を呼べば、愁は表情を引き締めてぶっきらぼうに「嗚呼」と返事をした。
「粥、食えるか?」
「粥?」
愁が背中を向けて、勉強机から何かを持ってきた。御盆の上に丸い器から湯気が出ている。伽夜は身体をゆっくりと起き上がらせ、器を覗いた。少し溶けた米に小さく切られた南瓜と黒胡麻がまぶされている。お粥と愁の顔を見比べると、伽夜の心境を悟った愁が説明をする。
「明が頼まれたんだ。だから、とりあえず食え。味は保障しないからな」
どうらや愁が作ったものらしい。差し出されたお盆を受け取り、笑ってみせる。有り難う、と唇で紡げば愁は一瞥して部屋を去った。閉まった扉を唖然と見つめ、手元の御盆に視線を落とす。いただきます、と挨拶をして口に運んでみれば優しい味がした。
「…美味しい」
南瓜の甘みと黒胡麻の感触が絶妙で舌を満たす。そう言えば、今日は病院に行った際にコンビニで買ったメロンパンをかじったくらいで、まともに食べていなかったことを思い出した。余程身体は栄養を求めているようで、次々に口にしてぺろりと食べてしまった。