一際大きく耳に響いた声に伽夜は顔を上げた。目の前にはとっくに帰ったはずの明が必死な表情を浮かべて伽夜を見ている。しきりに「大丈夫?」と聞いてくる明を伽夜は夢うつつにぼんやりと見つめる。 何故、明が居るのだろう。夢だろうか。
「どうしたの?何処か痛い?…忍者!」
「俺は何もしてねえぞ!…多分」
「伽夜の傍に居て何を言うの?忍者の存在が伽夜を哀しませたんだ!今すぐ這いつくばって土下座して謝れ!」
「俺の存在かよ!?」
「覚悟は良いよね?伽夜を泣かせたんだから、呪っても祟っても良いよね。良いに決まっている」
饒舌に述べる明は笑っているが、目が据わっており怒っているのが分かる。愁の本能がまずいと警告するが逃げられない。賑やかなやり取りを伽夜は見て、ようやく現実だと理解した。先に帰ってという伽夜の願いを明は聞かず、待っていてくれたのだ。
「…明、…くん」
「うん?伽夜。もう大丈夫だからね。僕がちゃんと責任を持って誠心誠意に忍者を祟るから」
伽夜が明に向かって手を伸ばす。しかしそれは届くことなく宙を切った。伽夜は自分の手を降ろす。在っても無い曖昧な存在、幽霊。そうしたきっかけを作ったのは他ならぬ自分だ。
「明くん、ごめん」
在った日々を全部忘れてしまった事。哀しませて傷付けた事、全部自分のせいだ。謝れば、笑う明の顔がいつになく真顔になった。それだけで伽夜が明に何故謝り、この状況になったかを把握出来たらしい。
「伽夜、良いよ。大丈夫だから。謝らないで。大丈夫だよ」
小さい子と目を合わせるように膝を折った明は目を和ませてみせた。伽夜の虚ろな目に明が映る。 何が大丈夫なのか。伽夜は明を見ながら、心の中で否定する。笑う明からは優しさと明るさしか感じない。
『覚えていないんだね』
今の伽夜が覚えている一番古い記憶は病室に居た記憶で、数日後に来た少年―明だと思い出したが―の言葉が心に棘を刺す。覚えていない伽夜は辛くない。だが、忘れられた明は伽夜のせいで哀しんでいた。誰もが伽夜に思い出すことを望んだが、出会ってから明は一度もそんなことは言わない。寧ろ、思い出さなくて良いと言う。
「思い出すから」
これは傷付けたことの償いではない。思い出したい、明と在ったと云う日々を。明をもう哀しませたくない。いくら本人が「大丈夫」と労わってくれても、何の解決にもならない。
「私、思い出してみせるから…もう少しだけ待っていてくれる?」
涙を流す伽夜を明は何も言えないまま、見下ろす。自分の中で葛藤しているのが見ていて一目瞭然だ。明は伽夜に手を伸ばした。しかしすり抜けるだけで掴むことはない。 触れたくても触れられないのが今の明だ。
「ねえ、伽夜。僕が覚えているからたとえ伽夜が思い出せなくても大丈夫だよ。記憶が在っても無くても伽夜は伽夜だからね」
優しい言葉は薬のように傷に馴染む。心地好い感覚に伽夜は首を振った。眦の雫を指先で払うと改めて明を見据える。
「それでも、私は思い出したいの」
いつになく強い光が目に宿っていた。二人とは切り離されたように愁はそれを見ていた。
*
「小さい頃の話をしてくれる?」
寝間着姿の伽夜がリビングでテレビを見ていた明にそう頼んだ。明は一瞬だけ目を伏せ、伽夜に向かって微笑む。あの後、愁は「今日は遠慮しておく」とそそくさと帰ってしまったため、充が残念そうだった。そんな表情は見たくないため、明日こそ連れて行こうと密かに伽夜は決めていた。記憶を思い出す努力を始めるに当たって、アルバムを見る事を思いついたがまだ怖い。無難に明から話を聞こうと伽夜は思いついたのだ。明の隣に座わると明はゆっくりと語り始めた。
「伽夜の母さんと僕の母さんは親友同士だったんだよ。何でも好みが殆ど一緒で、とても仲が良かった。だから将来お互いの子供が結婚したら本当の家族になれるねって望んでいたんだって。やがて二人はそれぞれ結婚して、同じ年に僕らを産んだ」
それが二人が出会うきっかけになったのだと理解する。
「でも僕が病気だと分かって入院する羽目になって…そうしたら伽夜の母さんはよく病院に伽夜を連れて遊びに来てくれていたんだよ。伽夜が幼稚園、小学校に上がっても良く一緒に遊んだ」
「何をして遊んでいたの?」
「色々だよ。ままごとや絵を描いたり、絵本を読んだりしてね。やっぱり場所が場所だったから室内で出来る遊びだったね」
病室で出来る遊びは限られている。聞いた話をなぞって連想して構築してゆく。話が記憶の何処かにぶつかって思い出せたら良いのに、と思いながら聞く。
「一番好きだった遊びは?」
「ピアノかな」
「ピアノ?」
そう、と明は目を綻ばせた。
「病院はね、祖母方が代々経営していたから僕の病室は一般病棟から離れていたんだ。病室の隣にピアノを置いた部屋があって、よく弾いたなあ…」
経営者だから出来ることらしい。病室の隣室にピアノを置いたというのは両親の優しさだろうと感じる。
「明くん、弾けるんだ?」
「うん。伽夜は歌うのが好きで、合唱とかしたよ。弾き方を教えて合奏もした」
「…ピアノ…」
両手で引くことが出来るのは器用さの表れだ。目の前が暗くなり、笑顔で笑う明が消える。飛来したのは中等部の時の記憶。明るい光が指す音楽室。黒板の前には黒いグランドピアノがあるが、普段使われることはない。それは音楽の先生が専ら音楽鑑賞や箏などの日本楽器の演奏を生徒達に教えていた上に合唱の時はテープに合わせて歌わせていたために、ピアノは音楽室のオブジェ化としていた。しかし、その音楽の先生が産休に入ったために別の音楽の先生が授業を受け持つことになった。
『先生はね、ピアノ専攻なのよ。産休に入られた佐藤先生はピアノは使っていなかったのでしょう。授業が始まる前に調律したからね、今日は授業じゃなくて何か歌いましょう』
ピアノの周りに並びなさい、と言われクラスメイトは席を立つ。茫然と座ったままで居る伽夜を同じクラスだった由宇が手を引っ張って並ばせた。皆が並んだことを確認する。先生は鍵盤に手をかけた。習ったばかりの合唱の音が響く。
(違う)
遠い場所から繊細な音が伽夜の耳に響く。目の前のピアノの音よりも澄んだ音を知っている。何処で聞いたのか、分からない。けれど込み上げる。切ない。何故、どうして。歌声に掻き消えることなく、響くピアノの音。溢れる感情に耐えきれず、視界が潤んだ。泣く理由が分からなかった。ただピアノの音が胸を締め付けてならなかったのだ。
「あれも明くんだったんだ」
「え?僕?」
今、やっと理解する。記憶に埋もれた遠いピアノの音は明が弾いていた音だったのだ。おそらく、幼い頃によく弾いていたという話から先生の弾くピアノの音に触発されて記憶の欠片が現れたのだろう。首を傾げる明に何でもない、と首を振って伽夜は話題を続ける。
「今、芸術科目が音楽で合唱しているよ」
「芸術科目って他にもあるんだ?」
「音楽、書道、美術から選択するの。書道は上手く書けないし、美術は面倒だったから音楽にしたの」
「成程。確かに昔、折り紙で鶴を作っていた時に鶴もどきが出来ていたもんね」
「もどきって、何?今、ちゃんと作れるよ!」
「いや、結構不器用だったからね。伽夜はさ。ねえ、ピアノの正式名って知ってる?」
ピアノの正式名と聞いて、伽夜は首を振った。たださえ音楽の知識はないのだから、ピアノの正式名称など知るはずがない。
「一般的には、クラヴィチェンバロ・コル・エ・ピアノ・フォルテだよ」
「クラ…バロ…フォルテ?」
「やっぱり伽夜も言えないんだ!」
「生憎横文字は苦手だから。それって何語?」
「イタリア語。弱音と強音が出るチェンバロって意味。僕の友達もさ、言えなかったんだよね。懐かしいなあ」
「明くんの友達ってどんな人?」
尋ねれば、明は目を細めて懐かしそうにゆっくりと語る。声音がいつになく優しく、それだけでその友人が大事な存在だと分かる。
「優しい子だよ。割りと遊びに来てくれて僕を心配してくれた。長生きだから色んなことを知ってて、昔話を聞くには一番良い人材だった。今、どうしているかな?よっしーは」
「よっしーっていうの?」
「そう、奈良の地名と一緒の字を書いて吉野っていう名前。可愛いでしょう?あ、勿論男だからね!いや、可愛いって言うのは名前であってよっしー自体のことじゃないから」
念入りに念を押されるが、一体何が明を焦らせたのかが分からない伽夜はとりあえず「分かった」と返事をした。
「でも長生きって明くんより年上だよね?」
「見た目は僕と変わらないけど、相当長生きしていたよ。何歳って言っていたっけな…二百?四百?とりあえず、とても長生きなお爺ちゃんだけれど、若いっていうアンバランスな感じ。格好なんて時代錯誤だったよ。まあ、皆そんな感じか」
「…見た目が変わらなくて長生き…まさか、人じゃない?」
「うん、精霊だった…はず。よっしーは」
当たり前のように頷く。 そう言えば忘れていたが、明は非科学的な存在が視える人なのだ。 だから、そんな友人が居てもおかしくないのかもしれない。いや、でも非科学的な存在は人ではないから『友人』と称すのはおかしいかもしれない。言うならば、『友霊』だろうか。思考の中でそんなことを考えてみる。
「そう言えば、もう一人居たっけ。僕のことを『師匠』って呼んでいた奴が」
「師匠…?」
「弟子にした覚えもないのにさ、勝手にそう呼んでいたよ」
「師匠って呼ばれる理由が気になるんだけれど」
「だって入院している僕は相当暇でさ、悪戯とかするのが好きで…それを見たらしいよ」
「悪戯って、明くんはやんちゃなんだね」
「そんな僕は嫌い?伽夜が望むなら、どうとでもなるよ。そう言えば聞いてなかったね、どんなタイプが好き?熱血系?爽やか?純情?腹黒?インテリ系…?」
顔を近付けてくる明に伽夜は後ずさる。
「そ、そのままで充分だよ!」
「それって伽夜のタイプは僕ってこと?」
「う、うん」
何度も頷けば、明は表情を綻ばせた。それから聞いたのは昔話でも明の友人の話で、それは伽夜の眠気が来るまで続けられた。
*
「思い出さなくて良いんだよ」
眠る伽夜の顔はあどけなく、幼少の頃と変わらない。髪を撫でたくても撫でられない。触れられない。幽霊になったのは他ならぬ自分のせいだと明は分かっている。
「僕が覚えているから、大丈夫だよ」
それは今までに何度も言ってきた言葉。それは誰よりも大好きな人に忘れられた自分を支える言葉でもある。何が出来ただろう。まだ幼い自分に。明が出来たのは受け入れることだけだった。忘れられた、消された、覚えていない。否定された事項を受け入れた。確かに哀しかった。けれど、否定出来るわけがない。
「伽夜が忘れたのは僕のせいだから」
幸せを、記憶を奪った理由を作ったのは明自身。事態が起きた時に、取り返しがつかないことをしてしまったのだと悟った。思い出してほしいという欲はある。けれど、それには苦痛が伴う。だから、良い。明が全て覚えている。幼少期に共に過ごした日々を。
「だから、思い出さなくて良いんだ」
――独白は闇に消え去った。