確かに君は此処に居た


19.闇夜の中で

「先に帰っていてくれる?」
「え?伽夜」

暗闇が覆う夜。あと三十分で最終下校時刻となる時間帯に、校門のところで伽夜は立ち止まった。

「ちょっと由宇…友人に用があるの」

向かい合うのは愁だ。明は丁度、二人の間に立っている。こうすることで他者から不審がられないようにしている。迂闊に明と話していると、他者は明が認識出来ない為に伽夜と愁に変な噂が立つからと明が提案したのだった。

「そうなんだ?僕、ついて行くよ」
「あ、それはごめん。ちょっと困る」

申し出を断ると、明は『がーん』と擬音が付きそうな程肩を落とした。伽夜は故意に愁へと向き直って話しているため、余計に哀しい。

「そっか。ならさ、此処で待ってる!幽霊だから寒くないしね」
「ううん、家で待っていて。大久保くんと一緒に。充さんには言ってあるから」

すっかり充は愁が気に入ったらしい。昨夜、食卓で愁が一人暮らしだという話になった時に充が夕食に来るように言ったのだった。勿論、伽夜の承諾が必要でキラキラとした目で見てくる充を伽夜は否定出来るはずがなかった。そしていつもの平日は早めに帰宅する充が今日から首を長くして待っている。だから、指輪を探すのも少し早めに切り上げた。

「え、忍者と一緒に下校?うーん、伽夜がそう言うなら仕方ないなあ」
「俺は忍者じゃねえ!」

忍者?と今日、耳に入ってきて何度目かになる言葉に大いに疑問を持っていた。放課後、指輪を探す時には明は愁を『忍者』と呼ぶようになっていて、呼ばれる度に愁が一喝する状態が繰り返されていた。唸る明と明を黙って様子を見ている愁を見比べて、抜けるなら今だと伽夜は踵を返した。

「じゃあ、後でね!」

一方的に別れを告げて、先程下ったばかりの坂道を駆け上がる。後ろで呼ぶ名が聞こえたが、聞こえないふりをした。



「どうしよう、帰って言われたし…でも伽夜を一人帰させるのは不安だ」

小さな背中を見送る明はぶつぶつと葛藤をしていた。帰れと言われたが、夜道は変質者が出たりするから危ない。

「もし伽夜が襲われたら……その時は犯人及び一族を祟るけれど…」

逞しく想像を繰り広げている明を見て、愁は呆れた風に明を一瞥すると携帯を広げ耳に当てた。携帯は校内では使用禁止だが、校門を一歩出た時から使用しても咎めはない。

「おい、此処に残れ」
「え?」
「俺が行くから、明は此処で待ってろ」

端から見たら、電話で話しているように見えるだろう。こうする理由は伽夜が愁と向き合ったのと同じだ。

「伽夜をつける?そんなストーカー紛いなことは許さないよ!」

怒る明に愁は本日何度目かになる溜め息を深々と冷たい空気へと吐き出した。

「あのな、帰らせるのが不安なんだろ?いくら校内でも、夜は危ないだろうが。とりあえず俺が後を追うから、もし来たら帰って良いから。その後は理由は何でも良いから、連絡するように言ってくれ」
「それなら、僕が行く!」
「古嶋が言ったことを破るのか?」

ぐっと明は押し止まる。

「忍者のくせに生意気だ!しょうがないから、此処で待ってるよ」

赤いブロック塀に手と足を組んで、明は愁を見下ろす。悔しそうに唇を噛んでいる。愁は吹き出すのを抑えて走り出した。



何処にもない。教室、特別教室、焼却炉、食堂等は探した。残るは、外だ。外といっても広いため、伽夜は中庭の花壇の前に座り込んで居た。廊下から漏れてくる光で微かに中庭は明るいが、視界は明確ではない。そこで、鞄から家から持ってきた懐中電灯を取り出す。普段の見慣れた光景でも時帯が違うだけでがらりと変わる。昼休みにざっと見渡してみたが、明日は念入りに探してみようと思う。そう考えながら花壇の植物を傷つけないように、片手の指先でそっと動かしながら探す。今、触れているのは輪郭からしてパンジーだろう。

(何処にあるの…?)

最終下校時刻まで、あと約二十五分。今日探せるのは、残り僅かだ。落としてから日数が経つと、出て来ない可能性は大きくなってしまう。だから、僅かな時間だけでも探したいのだ。 中庭で探す姿を見ている者が居た。それは愁だった。最初、何かと思ったが見れば理解した。薄暗い中庭で懐中電灯片手に探していることを。その為に嘘を付いたことに気が付いた。

「古嶋」
「…あ、大久保くん…」

振り返った先に、愁の姿を捉えた伽夜は困惑していたようだ。探すために嘘をついた後ろめたさがあることが困惑の理由だ。次に紡ぐべき言葉は見つからず、空気に溶けてゆく。

「…なあ」

愁の問う声が震えた。

「なんで、言わないんだ。俺が変なのが視えるって」

突然の質問に沈黙が満ちる。下校する生徒の楽しげな声が遠い。此処は同じ世界に在るのだとは思えないほど、遠く眩暈がする。伽夜は言葉を探した。愁が不安を持っていることくらい、暗闇でも理解出来る。愁も愁で何故、自分がそんな質問をしているのか理解できていない。

「…だってもし言っても何もならないよ。私にとって得にも損にもならない。だって言っても言わなくても、大久保くんは大久保くんでしょ?」

やっと出た言葉は、空気を覆う十一月のごとき声音だった。

「それに、大久保くんだって言っていないでしょう?私が幼少の記憶ないって。記憶喪失だって。きっとそれと同じだよ。人に知られたくないこととそれ以外の区別くらい出来るよ。私にだってあるもの。これほで良い?」

答えが充分かと今度は伽夜が問いかける。問いかけても、愁は伽夜を見つめるだけで口を開かない。伽夜は天を仰いだ。周囲が薄暗いせいで、星が見える。視線を愁に戻せば、愁は変わらずに立っていた。

「やっぱり最初の言葉取り消すよ。もし大久保くんの事を言ったら、私が人としての価値が下がるのが嫌。意図的に人を中傷したり、誹謗したり、傷付けたりする人と同じにはなりたくないから」

他人を傷つけることは何にもならない。された方は深い悲しみに暮れ、心に傷を負うだけだ。

「…明が待ってるぞ」
「うん、でももう少しだけ探すから。先に私の家に行っていてくれる?」
「なんで、必死に探すんだ?」

頼めば、さらに疑問を問いかけられた。そんなことを考えたことがなかった伽夜は思考を巡らせる。指輪を探すのは何故だろうか。

「なんでだろう?分からないけれど、私にとっても大事な物だからだよ」

曖昧なのは、記憶がないせいだ。今も首から下げている指輪は現在伽夜が持っている最初の記憶から在るものだ。忘れていても何処かで覚えているのだ。これは大事なものだ、ということを。

「何も覚えていないのか」
「うん、真白だよ。最初に覚えているのは病室で大人達が顔を覗き込んでいたことかな」

再び花壇を懐中電灯で照らしながら探す作業を始める。手は動かしながらも、伽夜は今の最初の記憶を思い返していた。目覚めて名を呼ばれて問いかけられた。でも、見覚えない。目の前に居る人々が誰だと言うことも、呼ばれる名も全部知らなかった。

「数日してね、男の子が来たんだ。その子が聞いたの。『僕が分かる?』って。でも、否定も肯定も出来なかった。あまりにも哀しそうな目をしていたから謝ることしか出来なかったの」
「まさか、明?」

頷く。周囲の環境に怯える伽夜に会いに来た少年は明だ。記憶を失った後、直接確かめに来たのだろうと最近になって気付いた。

「古嶋は思い出したいのか?」

懐中電灯が手をすり抜けて土に落ちる。記憶を取り戻す治療を行った際に『思い出して』『思い出せないのか』とは言われたことはあったが、『思い出したいのか』とは初めて伽夜は誰かに問われた。自身が記憶を取り戻したいのか、と考えたことはない。それは持つ記憶が今、持っている記憶の前は白く何もないのだ。しかし記憶が在ったら、と強く想ったことはある。それはあの時――数日前に明と自分の幼少の写真を見た時だ。

(記憶があれば――きっと違った。…全部私のせいだ)

伽夜は頭を抱えた。明が会いに来てくれた時に記憶があれば、明に別の言葉をかけられたはずだ。そう思ったことを伽夜は一瞬で払った。記憶があれば、ずっと伽夜は明と一緒に居たはずだ。明を哀しませることなどなかった上に死なせる機会を与える事も指輪を失くすこともなかった。闇が目の前を覆う。足元から暗い場所へと堕ちてゆく。

『伽夜』

男としては割と高音で柔らかく呼ぶ声が響く。この声は明だ。

(ごめんね、明くん)

記憶が無くて、死ぬきっかけを作って、哀しませてごめんなさい。謝罪の言葉は明の哀しみを溶かし傷を癒してはくれないだろうが、伽夜は謝罪を何度も紡ぐ。



written by 恭玲 site:願い桜