確かに君は此処に居た


18 、断片の事実は欠けたまま

「…いい加減、起きろよっ!」

高らかに上げられた声と共に愁の後頭部に目覚めの制裁が矢田によって下された。その衝撃で目を覚ました愁はのろのろと伏せていた机から顔を上げ、目の前に教科書を持って立つ矢田と櫛笥を見据えた。

「慣れないことをしたせいでいつもよりお疲れみたいだね、大久保君」
「あー、そうだろうな。あれはシュウシュウらしくなかったよな。クラスの笑いをとるという高等な技なんてシャイなシュウシュウには出来ないのになー」

撃沈している愁の様子を二人は楽しそうに話をする。寝不足など日常茶飯事だが、こんなに朝から眠りこけるのは久しぶりだった。それも昨日のことで精神的にも体力的にも疲れていた証だった。

「おい、その中国人っぽい名前やめろって何度言えばお前の脳みそは理解するんだ?」
「へい、シュウシュウ。これはユーと俺の友情のなせる技だから誰にも止められないんだ」
「…櫛笥、放課後こいつを病院に連れて行ってくれるか?」
「俺よりシュウシュウの方がおかしかったじゃん!何、あの朝のホームルームの出来事は!親友の俺を差し置いてさ。悲しいよ、俺」
「お前を親友にした覚えはないけどな…朝のホームルーム?まだ朝のホームルームはまだだろ?」

自分が眠ったのは朝課外の英語の時だ。今は、英語が終わった後の短い休み時間だと愁は思い込んでいた。愁の発言を聞いた矢田は大きく目を見張って、ふらりとわざとよろけて見せると櫛笥の肩に手を添えた。

「嗚呼!聞いた?シゲシゲ、シュウシュウが…っ、とうとう老化が始まったらしいぞ!そうだな、老化は科学が発達した人類でさえ避けられないものだ。これは宇宙よりも広い心で受け止めるしかないな、俺。」

どうこう言う矢田のことはほっておいて、周囲へ目を向けた愁は固まった。

(席が変わってる…ぞ。しかも、隣人までもだ)

廊下側の一番後ろだった席が反対のグランド側の窓側の一番後ろの席に変わっていることに気付いた。ちらっと隣を見れば、読書をしている伽夜の横顔が目に止まった。伽夜は伽夜で愁が起きていることに気付いて、きっと時間間隔がずれていることとかで混乱しかけているのだろうと思いながら本から目を離さないようにしている。

「…なあ、今から授業は古典だよな?」
「古典は一限だろ?今から、三限の生物だぞ」
「…生物?」

周囲の机には分厚い資料集とノート、緑を基調とした生物の教科書が置かれている。そして何より愁の腕時計が十時四十分過ぎを指していた。

「古典の時、訳が上手く訳せているって誉められたじゃないか」
「渕上に、か?」

そうだ、と櫛笥は頷く。愁は今朝の自身を思い返してみるものの、やはり愁の記憶は英語の時で途絶えている。

「なあ、いつ席替えしたんだ?」

再び、目の前の二人がお互いの顔を見合わせた。



「おいっ!」

愁は屋上に駆け上がるなり、フェンスの上に座る明の背中に向かって怒鳴った。昼休みになった途端に、お昼を食べずに教室から走ってきたせいで呼吸は大いに乱れる。大きく息を吸って整えていると、いつの間にか振り返った明は笑っていた。改めて太陽の下に居る明を見ると、姿が透けていないために幽霊だと忘れそうになる。しかし、今、宙に浮いて愁を見下ろす様は非科学的存在だと物語る。

「そんなにイライラして…カルシウム不足?肌、荒れるよ」
「ちげえ!わざわざ昼休み開始と共に来てやったんだ。明、よくも…ホームルームと言い席替えのことと言い…」

浮いて顔を覗きこんでくる明を愁は身を引いて離れた。二人から聞いたことは周囲の変化と愁の時間間隔のずれを明らかにするものだった。それは寝ている愁の身体に目の前の明が入って、身体が一時的に手に入った明が席替えを提案したり古典では訳を披露したと言う。どうりで、隣の席の伽夜が「聞かないで」というオーラを出していたのだと愁は納得する。

「あれは愁にも利益あったのに文句言うなんて欲張りだね」
「利益?利益どころか、損益だろ!まず俺が人前で流暢に話すなんてな、ありえねえ。冗談、笑顔を晒すのも論外だ!それをお前はやったんだぞ!?」

大勢の前で冗談など言えない上に笑うことなどしない。それを明はやってしまったせいで、愁は複雑な気分なのだ。腕を組んだ明は興味なさげに「ふうん」と鼻を鳴らした。

「そう?朝から昼近くまで…少なくても三時間眠れて大分睡眠不足解消したんじゃないの?それに成績が微妙な愁のカバーだって出来るよ。古典の時とか先生に驚かれたくらいにね。愁は眠れて勉強もカバー出来て、僕は青春出来て両者の利益出てるから良いことだよ。そう思わない?」

すらすらと反論出来ないほどの正論をぶつけてきた。言い返せない。明の言葉は的確に射抜いている。愁はため息をついた。

「…あんま俺らしくねえことはするな」
「何?それってこれからも良いってことだよね、ありがとう。忍者」
「おい、待て。今の言葉でどうしてそうなる。しかも忍者って何だ!?」
「えーだって、僕の居場所分かったじゃない」

明の居場所は学校内としか分からなかったために、愁は執念で明の気配を探った。それが屋上だったというわけである。

「言ってもないのに、分かるなんて江戸時代の忍者みたいだよ。それに何気に気配を消すの上手いしね。これだけ立派な理由があるんだから胸を張って大丈夫だよ」
「なんで俺が変な名前に誇りを持たないといけねえんだよ!?」
「だって人間は一つでも誇りを持った方が良いよ」
「そうだとしてもな、変な誇りは持たねえよ!」

忍者という変なあだ名なんて持ちたくないし、呼ばれたくもない。たださえ矢田に『シュウシュウ』というあだ名で呼ばれている身の上だ。思考の隅で明と矢田が気が合いそうだと関係のないことを思う。

「もう身体を借りることに対して不安を持たなくていいよ。奪うつもりないし。またまた伽夜にチューなんかしないよ。そんなことしたら、伽夜が嫌がる。もし伽夜に嫌われたら、忍者のせいだ」
「さっきから話が飛んで飛んでいねえか。ってか、古嶋に嫌われようが俺には関係ない」
「はっ、これだから最近の若造は人の責任をすぐ転嫁するんだから」
「それはお前だろうが!」

やれやれと肩を落とす明に愁は突っ込む。曖昧に笑う明はフェンスの上に再び座った。

「それより…指輪見つかったのか」

力なく首を振る。なんとなく満ちた空気に話題を変えないといけない気がして愁は口を開いた。

「なあ…明は古嶋が好きなんだよな」
「何、僕から伽夜を奪う気?そんなの七つの大罪よりも罪深いよ。何度六道を輪廻しても僕は許さないよ。愁が愁じゃなくなっても永遠に恨んで呪うよ」
「そんなんじゃない。ただ、確認しただけだ!」

告白した後に幽霊として現れた明の心は一心に伽夜へと注がれている。まだ短い期間しか一緒に居ないが、明が伽夜を深く想っていることは恋や愛に疎い愁でも理解できる。明は空を見上げた。天は蒼く澄みきって、雲が風にゆっくりと流れてゆく。フェンスの下に広がるグランドでは男子がボールを追いかけまわしている賑やかな声がしている。

「伽夜は大事だよ。僕の一番大事な子だもの。すごく愛しいに決まっている。前世でも来世でもきっとそうだったし、そう想うよ。伽夜以外、いらないもの」
「明を忘れていても、か――?」

伽夜の記憶がないと明から言われた時、愁は初めて伽夜を認識した気がした。こんな風に指輪探しという形で関わる前はただの同級生で、失礼な話だが視界にも入らなかった存在だ。しかも昨日までは愁が幽霊などが視えることを言うに違いないと思っていたが、学校では一切そんな話を聞かない。伽夜は誰にも言っていない。事実を知って学校が始まった今日言わなかったのだから、これからも言わないのだろうと安心している。考えてみれば伽夜自身も記憶喪失という事実を、愁と事実は違うが人に触れられたくない事情を持っているのだからという変な理由が在る。そんな当人同士だから他者に言うはずがない。

「僕があの頃を覚えているから良いんだ、今は」
「今は?」
「そう、今はね。そうやって納得出来る。でもさ多分その内、それだけじゃ納得できなくなるね。人間って欲深いから」
「思い出してほしいんだな」

今は、という言葉に込められた思いは愁が口にしたものだ。思い出してほしい、在った記憶を思い出して昔のように接してほしい。しかし、明には本音を制御する理由がある。

「伽夜が忘れた理由は本人には母親が亡くなったショックからって言われているみたいだけれど、本当は違うんだ」
「…なんで、だ?」
「僕のせいなんだ。伽夜が僕も父親も何もかも忘れてしまった原因は僕。原因知りたい?」

空を見上げていた明は愁へと視線を向けた。視線が合うなり、愁は複雑そうな表情を浮かべた。自分が聞いて良い話なのか、迷っているようだ。迷う愁に笑みを向けて、明はなぞるように昔を思い返して語り始めた。

「海を見に行ったんだ、十歳の伽夜と僕は。僕は前に言った通り、入院していて海なんか見に行ったことがなかったんだよ。好きな本に出てくる海を僕は見たかった。けれど、病院から出るには結構苦労するわけ。看護師とか医者とかの目があるから」

生命が生まれたという母なる海はとても大きい存在だと伽夜から聞いて興味を持ったのを覚えている。その日から海の写真集が明のお気に入りの一つになって、暇さえあれば眺めていた。

「だからね、僕は一人では行けなかった。それで大好きな伽夜を誘ったんだ。そして計画を立てて病院を抜け出した。バスと電車を乗り継いで、海に着いた。そこでさ、初めての海ではしゃぎ過ぎたんだ。それで酷い発作を起こして、倒れたんだ。目覚めたら病院で、もうその時には伽夜の記憶は真っ白になっていたんだよ。仲良しの看護婦さんから聞いた話では、海岸に居た人が救急車を呼んでくれたらしい。その時、伽夜は僕が死んでしまう、とひどく混乱していたって聞いた。多分、自分を責めてしまったんだよ。追い詰めて追い詰めて伽夜は真っ白になってしまったんだ」

明は思う。気を失う前に覚えているのは、泣きじゃくる伽夜の顔。「大丈夫?死なないで」と明の名を何度も呼んでいた。目覚めた後、告げられた事実を信じられずに数日経ってから明は伽夜に会いに行った。そこで全て受け入れなければならなかった。伽夜が明を忘れ、自分さえも忘れてしまったことを全部明は記憶を失った伽夜に会って受け入れた。

「だから今の伽夜に与えている情報は幾つか嘘があるんだ。例えば、今の話や実の母親は生きていることとか――ね」

記憶を思い出させようと施した術は全部効果がなかった。だから大人たちは決めた。記憶がない伽夜を今まで通りに生活させると、不安定な伽夜は今度は壊れてしまう。だから、優しい嘘を与えて新しい場所で生活を始めることにした。この先、明は伽夜と会うことは禁じられて伽夜は父親と共に見知らぬ場所に行ってしまった。

「それ、言った方が良いんじゃねえか?」
「いつかね、言わないといけないだろうね。僕が言えたら良いんだけれど。それは微妙だから。だから愁、もし必要な時、僕が居なくなって事実が必要になったら言ってくれる?勿論、記憶喪失になった原因は言わなくて良い。けれど、実の母親が生きていてさらに双子の妹が居るって事を伝えてくれる?」
「おい…、今…双子って言ったか」

聞き違えがなければ、確かにそう聞こえた。明は一つ頷いてみせる。

「うん、伽夜は一卵性の双子の片割れ。妹の方は僕が幽霊になる直前まで御見舞に来てくれたりしてくれたよ」

何でもない風に言う明は愁が驚いている理由が分からないという視線を向けてくる。しかし身近に居る人が双子だと聞いて驚かない人は居ないだろう。

「いつか、僕以外のことを思い出してくれたら良い。今のように一人暮らしの状態よりも家族の中で暮らした方が幸せだから」

明の記憶を否定する明に愁は言い返そうとした瞬間、昼休みの終わりを告げる軽やかなチャイムが耳朶を打った。

「そう言えばさ、忍者。お昼食べたわけ?昼休み開始云々って言っていたけれど」
「………食ってねえ…」

言われて、初めて気がつく。人は夢中になると他のことは忘れるらしい。どうりでお腹が空いているわけだ。






written by 恭玲 site:願い桜