確かに君は此処に居た


17.大いなる勘違い


日が落ちるなり、気温も大幅に低下する。叩きつけるような風に凍えながら、着いたマンションの明かりを見るだけで温かくなった気がするのは気のせいではない。呼び鈴を二度と連続して押す。これは伽夜と充で決めたことで、いちいち充がインターホォンに出るのは不都合だろうと考えたものである。

「お帰りなさい。…あら」

玄関で出迎えた充は伽夜の背後の存在を認めると、声を漏らした。 充の視線を向けられた愁は居心地悪そうに目を泳がせながらも、充に軽く会釈する。そんな愁の様子を微笑ましく思ったのか、充は淡い笑みを浮かべ「いらっしゃいませ」と歓迎の意を述べた。

「せっかくお客様がいらっしゃるなら、ご馳走にしましたのに」
「すみません、急だったんです」
「少し御転婆なことをなさってきたのかしら?」
「やっぱり分かります?それで、お風呂って湧いてますか?」
「ええ、勿論」
「いつも有難う御座います。じゃあ…大久保くん…入って」

急に伽夜は振り返って話しかけられた大久保は丸い目をした。

「そのままだと気持ち悪いだろうし、ね?」
「……あ、ああ。どうも」

どうぞ、とスリッパを出され愁は「おじゃまします」と言い上がりこむ。玄関の壁に置かれた全身鏡に映った自分の姿を捕らえると、伽夜の言葉は納得出来るものだった。彼方此方探しまわり、ごみ捨て場を漁ったせいで制服が泥や埃で汚れている。本当はそんな姿で人様の家に上がるのは気が引けるが、伽夜が良いと言っているのだから良いのだと愁は割り切ってみる。

「ではお風呂に入られるのでしたら、御召し物を洗濯致しましょうね。明日、気持ちよく学び舎へ行けるように」
「い、いや!そこまで…結構です」
「そうおっしゃらずに、お客様なのですから御世話をさせて下さいませ」

困ったように言う充に折れてしまいそうだが、愁は首を振った。さすがに、汚れた姿で家に上がった上に風呂を借りて、汚れた服まで洗濯してもらうのは迷惑だろう。するとそれまで黙っていた明が愁の傍に来て、小声で囁いた。

「伽夜と充さんの厚意を踏みつけるってことは、僕に喧嘩売っていると思っていいよね?」

売ったつもりは毛頭ない。裏を返せば「厚意に甘えるほうが良い」と明は言っているのだが、生憎愁の思考はそこまで考えが及ばない。明の言葉で打って返すように 「お世話に…なります」 と、結局愁が折れてしまった。結果的には明の目論見通りになった。




伽夜が風呂から上がってリビングに行くと、夕食が並べられたテーブルに愁と明が向かい合うように座っていた。二人とも充が居るせいか、会話はせずにクイズ番組に視線をやっている。テーブルには、白い陶器にコーンや人参等の野菜がたっぷり入ったミネストローネとポテトサラダ、ご飯が並んでいる。しかしキッチンからは香ばしい香りがして見ると、まだ夕食の準備中らしい。

「はい、出来ましたよ」

伽夜は明の隣に座った。お盆に二人分のお皿が乗せられて、愁と伽夜の前に置かれる。お皿の中を覗き込むと、トマトソースをベースに煮込んだロールキャベツが香ばしい薫りを湯気に乗せて食欲を上げるようだ。

「いただきます」
「いただきます」

伽夜がするのを見て、愁もそれに習う。温かい料理は一日の疲れを癒していくようで、動き回った分より美味しく感じる。充はお茶を啜って、自分の目の前に座る愁をじっと見つめた。

「伽夜さんの御父様の御召し物は大久保さんには少し大きかったようですね」
「あ、いえ。有難う御座います」

今、大久保が着ている紺のトレ―ナーと黒いズボンは、長い間使われていない伽夜の父親の服らしい。充が伽夜の父親が此処にいつ帰ってきても良いように部屋の掃除をしていることは知っていたが、服の管理まで行き届いているとは知らなかった。

「ところで、お二人はどのように出会われたのです?」

出会った、という問いに一瞬愁は箸を止める。別のニュアンスに聞こえるのは気のせいだろうか。

「クラスメイトですよ」
「まあ、御学友なのですか?それは青春の時を過ごす場所で共に時間を重ねることが出来るなんて素晴らしいですわね!」

伽夜は曖昧に笑い、愁は黙々と食事を進める。 伽夜と愁は迂闊に首を突っ込まないほうが良いと各々、判断したらしい。

「伽夜さんも御年頃ですし、学び舎で知性を身に付けつつ良い恋仲の方と愛を育む御歳ですもの。是非、今度大久保さんが遊びにいらっしゃる時は腕に縒りをかけて御馳走を用意しますわ」
「えっ!…、…熱っ」
「伽夜!」

勢い余って伽夜は自分のマグカップを倒しテーブルに御茶を零し、右手にかかってしまった。座っていた明が伽夜の傍に寄ってきて「早く、水で冷やして!」と急かす。倒れたマグカップは充に任せて、キッチンの蛇口を捻り、水で右手を濡らす。火照ったような感覚が水で冷やされて逃げてゆく。

「大丈夫?伽夜」

心配そうに右手をじっと見てくる明に頷いてみせる。大したことではない。湿布を今夜貼っておけば明日には大丈夫だろう。

「どうですか、伽夜さん」
「大したことないです。大丈夫ですよ」

湿布を持ってきてくれた充が伽夜の右手に湿布を貼ってくれた。水とは異なる冷たさが皮膚に染み渡って心地良い。席に戻ると、マグカップには新たな御茶が入れられていた。

「大丈夫か?」
「…あ、うん。平気」
「さすが男子!女性を気遣うことが出来るなんて素晴らしいです」

愁の気遣う言葉に一瞬、躊躇ってしまったが伽夜は頷いて見せた。初めて愁が伽夜の目を見て、自ら話しかけてきたことに驚いたせいだ。その驚きも充の次の発言で吹っ飛んでしまうことになる。

「最近の若い方は気遣いが欠けているようで…大久保さんが伽夜さんの彼氏さんで良かったですわ」
「違う―――っ!!!」

異を唱える叫び声が愁と伽夜の耳に響いた。

「違う、違う、違う――!大体、伽夜にはちゃんと僕が居るんだから!僕という婚約者が居るんだよ――!」

テーブルの天井近く――宙で転げ回るようにして否定する明が聞こえない充に必死に訴える。それを唖然と二人は食事の手を止めて見上げる。充は勿論、明の声が聞こえることも姿が視えることはない。

「伽夜の婚約者は、この僕。伽夜に愛を囁くのも、触れるのも、幸せを与えることも全部全部僕の役目なのに!よりによって、勘違いされるのが愁なの!?」

怒りの矛先が愁へと向かいそうになっているのを察知した伽夜は充に再び否定することを試みることにした。

「…大久保くんはクラスメイトです、充さん」
「そんな風に誤魔化さなくて宜しいのですよ」
「誤魔化していませんよ!本当のことです。私に彼氏なんて大層な人は居ません。それに大久保くんに迷惑ですよ」
「大久保さんと清く正しいお付き合いをして下されば、私は何も言わず見守るだけですもの。ね、大久保さん?」

期待の目を向ける充、否定しろと目で訴える明、いくら言っても納得してくれない充に戸惑う伽夜の視線が愁へと一気に注がれる。普通、異なる視線を一度に向けられて人は何かしら行動を起こせるだろうか。-----否。

「…お料理、とても美味しいです」

出た言葉はその場に合わないものだった。





朝のホームルームは担任の渕上先生が連絡事項を生徒に告げるための時間である。それにも関らず、クラスメイト達が真面目に耳を傾けているのは渕上先生が怖いからだろう。そんな空気の中、暖房の温かい空気と昨夜の疲れと月曜特有の眠気のせいで伽夜の意識は揺らいでいた。

「もう大分、前回から時間が立っているので、席替えをします」

その一言で静寂を保っていたクラスは久しぶりの席替えとあって一気にざわめき出し、否応なしに伽夜を現実へと引き返させた。このクラスで席替えが行われるのは大体三カ月に一度のペースだ。他のクラスは一カ月に一度というところもあるらしく、以前に実亜が羨ましがっていたのを覚えている。
(…面倒くさいな)

数ヶ月間、慣れた席を移動するのが面倒だ。それに比べて、クラスメイトは日常の些細な変化に喜びを感じているようだ。もし親しい友人と近い席になれば授業中に分からない問いを聞いたり、昼休みも自分の席でおしゃべりが出来るなどメリットがあるからだろう。しかし、伽夜にとっては面倒の一言だ。やりたい人だけやれば良いと思うものの、集団生活の秩序を乱すのは理性が許さない。

(明くんはどっか行っちゃったみたいだ)

明は伽夜と共に学校に来た。朝課外の英語を興味深げに伽夜の近くで宙に浮遊しながら聞いていた。留学経験のある英語教師の英語を「聞き取り辛いね」とコメントして、英語教師と同じ英文を発音した明の英語は綺麗なものだった。しかし、今は教室の中に明の姿はない。ひょっとすれば、指輪を探しに行ったのかもしれない。

「さて、席替えの方法はどうしようか?」

ぼんやりと思考する伽夜を置いてゆくように周りは席替えへと動き始めていた。席替えの方法に悩む渕上先生の問いに「はいっ!」と元気な声が響き渡った。月曜の朝から元気だと思いながら、視線をやると目を見張った。

「何?大久保」

にこやかな笑みを浮かべ、手を上げる愁に一同は珍しいものを見るような視線を向けた。それも日頃、愁が発表など自ら進んでするタイプではないからである。むしろ、人前で発言するのを極力回避するタイプである。

「あびばがいいと思います」

滑舌良い言葉は皆の耳に届き、同時に笑いを引き起こした。周囲が笑いに包まれる中、伽夜は唖然と此処からは遠い愁を見ていた。

「あびばはパソコン関係を教える会社だろう!」
「そうそう、全く珍しく物を言ったかと思ったらよ」

愁と仲が良い、矢田と中家が皆に聞こえるように突っ込むとさらに笑い声が増す。賑やかな笑い声に包まれた中、愁は生徒同様に笑う渕上先生を見据えて落ち着いた口調で言葉を紡ぐ。

「正しくは、あみだが良いと思います」

渕上先生に穏やかな笑みを向け、椅子に座る。その笑みが普段の愁が浮かべるものではなく、見たことのない笑みでしばらく数人は茫然としていた。
「中央委員、早くあみだを作ってくれる?」

渕上先生が我に返ったように普段よりも大きな声を教室に響かせた。





黒板に書かれた座席に打たれた番号と自分が引いたあみだの番号を照らし合わせて、机を移動させる。彼方此方から喜びの声や落胆する声が混じり合う。伽夜は幸い今の席の位置から後ろへ三つ下がるだけで済み、クラスメイトが移動する様子をぼんやりと眺める。新しい席はグランド側の一番後ろで、黒板からは遠くなったが過ごしやすいだろう。

「…あ」

声を漏らしてしまったと思った時には遅かった。声に反応して合ってしまった視線は自分からは外せない。いつものように逸らされるかと思えば、新しい隣席のクラスメイト――愁は笑った。

「隣、よろしくね」

にこにこと笑みをたたえて挨拶をされる。それが自分で思うのも変なのだが、喜色一面な表情である。嬉しくて嬉しくて仕方ない、と無言の声が聞こえるようだ。それは良く知ったものに似ていて、伽夜はそれによって先ほどから感じていた疑惑は確信へと変わった。

「あ、のさ……明くん…じゃない?」

違和感を伽夜は確かめようと愁へと身体を向けた。 問いかけたことによって愁の笑みが一瞬で消え、見慣れた真顔で凝視される。じっと見つめられる視線から顔を逸らしたが、無言で訴えられているようで流れる沈黙が痛い。。

(…違った?)

返事が返ってこないので、不安になる。さっきの愁の様子が発表からおかしいと思っていた。今まで愁と関わったことがなかったけれども、一日中同じ場所に居るのだから印象くらいは分かっている。人前で口を開くこともニコニコと笑うこともない、女子に対しては最低限しか接さない。それが愁の印象だ。

「よく分かったね!」

愁の姿をした明に自分の両手を握られ、大きく上下に振られる。大きな声は周りの喧噪に紛れ込んで、クラスメイトの耳には聞こえなかったようだ。

「やっぱり愛の力だね、伽夜」
「な…なんで?」
「いやー…よくあるでしょ?幽霊が人間に乗り移るってさ」
「そりゃあ、ホラーではあるけど!」
「別にホラーを目指したわけじゃないんだけど、ものは経験と言うしね。眠ってる愁にやってみたら案外上手くいったよ。少しくらい借りて良いよね」

上手くいった、と喜ぶ明は上機嫌である。そんな明の説明によると、あくまで明は愁の身体を借りているらしい。

「それは借りるって言って良いの?」
「乗り移るっていうのは響きが悪いからね、借りる方が良心でしょ?」
(やる事は一緒だよっ!)

突っ込みたいが、あまりに明(姿は愁だが)が嬉しそうなので水を差すのは躊躇われた。明は握っている伽夜の両手に視線を落とした。

「…あったかいね、伽夜。とても、あったかい」

手を見る視線が哀しそうな感じで揺れている。 触れているのはあくまで愁の手だ。しかし、感じる体温はあたたかく、確かに明と伽夜は触れ合っている。

(……懐かしい…かも…)

伝わる感覚は伽夜に何とも言えないものを与える。昔、こうして両手同士を繫いでいた気がする。 手を繫ぐという慣れていないことで火照った身体を窓から吹く冷たい風が冷やしてくれる。とても心地良い。

「伽夜と一緒に学校生活を送られるなんて、夢みたいだ」

 


written by 恭玲 site:願い桜