確かに君は此処に居た


夢は崩れ、記憶の海へ


春が近付くに連れて、日差しは暖かくなってきた。それでも風は冷たくて、窓を閉め日差しが入るようにカーテンを開けている。彼はカレンダーに目を向けた。今日は二月十四日。所謂、恋人の日だ。

(…元気かな)

自然と顔が緩む。浮かんだ顔はたった一人。居なくなってしまった愛しい者。その前は、毎年贈り物をくれた。過去の記憶をなぞる時はいつも幸せだ。そこには必ず、彼の愛しい人が存在しているから幸福感に包まれる。それがたとえ一時的なことだとしても、彼にとってはそれが逃げ場だった。ある日突然、相思相愛だった者を失って事実から逃れる唯一の術だ。

「それにしても、どうしよう?」

チェストに置かれた、 上品な黒い包み。眠っている間に置かれていた。何も書かれていないのに、それが誰からのものか彼は理解していた。彼女―彼の想い人ではない―は彼が甘い物を食べないことを知っている。しかし、乙女心が行動を起こさせたようだ。分かっているのだ、向けられる好意を。それでも彼は答えることが出来ない。理由は単純で彼白だ。彼を忘れてしまった想い人を未だに彼は思い続けているからだ。

(本当にどうしましょうか)

チョコレートをどうするかを考え込む彼の頬に風が凪いだ。冷たさに顔を上げれば、視線を感じて其方を向けば扉に背中を預けた友人が佇んでいた。
「今日は珍しく気付くのが遅いんじゃないの」
「おや、久しぶりですね」

同じ職場で働く友人はたまにこうやって仕事を終えたら、自室まで足を運んで遊びに来る。そんな友人は揶揄すると、歩み寄って来てご丁寧に窓を閉めた。身体を気遣ってくれていることが行動で分かる。友人はいつも座る場所に腰をかけた。どうやら友人の訪問を扉の開く音にさえ気付かず、考えに更けっていたようだ。

(そう言えば…)

久しぶりに会う友人の顔をじっと見て、ふと思う。友人は何なく、甘い物が好きそうだと。そこで、彼は閃いた。

「ねえ、友人が困っている時に助けることは当たり前ですよね?」
「普通、世の中の流れはそうじゃないの。でも、僕にそれを求めないでくれる?君と友人になった覚えはないんだから」
「とりあえず…これ、貰ってくれます?」
「君、僕の話ちゃんと聞いていた?」

チョコレートが入った包みを差し出す。今、していることは人として最低なことだ。想いを込めて貰ったものを他者にあげる行為をしている自分が。友人は文句を言いながらも「何?」と訝しげに包みを見て受け取る。

「チョコレートです。生憎、食べないんでね」
「ふうん」
「ねえ…貴方は彼女の事を覚えていますか?」

彼の問いに友人は「勿論だよ」と答えた。頷いてみせる。彼は心を決めて口を開いた。

「実は、今貴方が持っている包みは僕に好意を寄せている方から頂いたものです」

たった今の言葉だけで友人は理解してくれたらしい。顔色を変えて怒る友人を宥めるように彼は穏やかに笑ってみせる。

「食べちゃいけないんです、僕は。だって、僕はあの子しか想っていないから」
「…彼女の為なの?」

違う、と首を振る。想い人のせいではない。これは彼の、自分自身の為なのだ。

「僕が周囲がどうなろうと、他の人の想いなんかいらないんです。ただ僕は彼女を想い続けるんだ。そのために、貴方にそれをあげてしまう僕は最低ですね」

最低、卑怯、阿呆、馬鹿――と様々な罵る言葉が頭を過ぎる。言われても良い。全然、心は傷付かない。揺るがなくまっすぐに射抜いてくる彼に友人は深々とため息を吐いた。

「残念だね、君は」

言われたのは、罵る言葉ではなく憐れみの言葉だった。友人は黒い包みを器用に破いて、中身を出す。現れたのはココアパウダーがのった生チョコだ。どうやら、手作りらしい。そういえば、これをくれた彼女は料理が得意であったと彼はぼんやりと思いだす。一方、友人は眩しそうに目を細めて、チョコレートを見つめる。

「これは純粋で綺麗な想いなのに、踏みにじる君が。そして未だに想い続ける君が残念で仕方ないよ」
「それで良いんです。ただ僕は一心に想い続けたいだけですから」

誰にもこの心は侵させない。彼の心も想いも全て、たった一人に絶え間なく降り注ぐ。それに応えられることがなくても、彼は充分だと思っている。

「最低な君にこれを貰う権利などないから、代わりに僕が深く感謝して頂くよ。まあ、君が最低なのは今に始まったことじゃないけれど」

摘まんで口に入れた友人は次から次へとチョコレートを消化してゆく。きっとふんわりとした幸せな味がするのだろう。

「堕ちてくれるんですか?」
「何の事?僕は疲れて甘い物が欲しいから食べているだけだよ」

最低なことを一緒に犯してくれる。想いがこもったものを友人に食べさせる彼と、彼の行いを黙認する友人。最低で残酷なことをしているのに、彼は何故か満たされた気分になった。幸せだと本当に思う。

(どうか、幸せで居たら良い)

白い雲から覗く蒼色は鮮やかだ今日も彼は願う、優しい友の隣で。罪を重ねながら、想い人を。

fin.

<設定>・彼は最愛の人を失くした(一応、恋人は生きている)
・彼はチョコレート断ちしている
 


fin. 


written by 恭玲 site:願い桜