ただ、走る。
背の高い木々が生える森は、昼の日差しを遮って暗い。その中から歩き慣れた獣道を正確に見つけ出し、ひたすら走り抜ける。
立ち止まることは出来なかった。
立ち止まってしまえば、涙が浮かんでしまいそうだったから。
―――自分には、泣く権利などないというのに。
熱い血脈が全身を巡っているのがわかる。鼓動が激しくなり、命の源を身体の中に満たしている。
地面に生えた先の鋭い草が、柔らかい足の皮膚を傷つける。
―――どうして、この心臓は止まらないの。
背の高い茂みが腕を裂いた。
―――どうして、この呼吸は止まらないの。
突き出した枝が頬を切り、それでも少女は脚の速度を緩めない。
―――……どうして、私、生きてるの。
夜が明けて、変わらずに昇った朝日。そこに照らされるのは、いつもと何ら変わらぬ村の姿。
彼が埋葬される様を見た。痛くて痛くて、どこが痛いのかもわからないほどに痛くて、我慢したけれど最後には堪らなくなって逃げ出した。朔を心配してくれる人々を置き去りにして、逃げ出してしまった。
思い出せば、自然、その光景が脳裏によみがえる。
背を向けたのは、朔が生まれ育った村だ。辛いことも悲しいこともあったけれど、それよりも優しい記憶に満たされた場所だ。
自分を呼ぶ優しい声が耳から離れない。向けられる笑顔も、差しのべられた手の平も。彼を形作っていた全てのものを、鮮明に思い出すことが出来るのに。
―――なのにどうして、彼はいないの。
「―――……っ……!」
否応もなく襲いかかって来る現実に、声を上げることも出来なかった。
悲しみが溢れ出して目頭を熱くする。鼻の奥がつんと痛んでうまく呼吸が出来なくなった。人目が無くなって爆発しそうになった胸の内。いっそ叫んでしまいたい衝動にかられて口を開くのに、空気が喉を焼くようにして漏れただけだった。
やがて遠くに見えていた森の出口が近付いて、樹木のトンネルの向こうに光が見えた。 眩しくて暖かい、太陽の光だ。
今の朔には必要ない、けれどどうしようもなく求めるものだ。
暗い森を抜けると、そこは開けた場所になっている。芽吹いたばかりの目新しい草が地面を埋め尽くし、休憩場所を作るように大きな木が点在している。
そこには湖があった。
二十年前、村が地下に水道を引き、井戸を整備する前、ここは貴重な水源だった。山で濾過された水が湧き出し、小川となって山を下り、ここに湖を作っている。おそらく水は湖の底からさらに沈んで、別の場所に下りて行くのだろう。湖へと続く水の流れが止まった事はなかった。
降り注ぐ日差し。風に揺れて音を立てる木々。地面では短い影が揺れ。水面が光を受けて輝いている。
今では村人がやってくることも無くなったこの場所は、朔と彼の憩いの場だ。
「ここを、僕らだけ秘密基地にしましょうか」
かつて、彼はいたずらっぽく微笑みながら言い、本当にここは二人だけの秘密基地になってしまった。
子供が森の探検の末に訪れることが多く、子供の遊び場になって久しかったというのに、彼が“秘密基地”に決めて以来、ここは本当に二人だけの場所になった。
彼は不思議な力を持っていた。そして、それを隠して生きていた。朔に教えてくれたのは、信頼してくれていたからなのだろう。
「僕と君だけがここに辿り着けるように、“魔法”をかけておきました」
彼の言う“魔法”がおとぎ話に出てくるそれとは違うと分かっていたが、彼が楽しそうだったから朔もつられて笑った。朔より一足先に大人になっても、彼は子供のような秘密めいたことが好きだった。
そして朔は、そうやって子供のように笑う彼が好きだった。
「……め、い、めい、めい、めい、めい……」
いくら名前を呼んでも、答えてくれる声はない。
「私が、殺した……っ……!」
責め立てる声がする。
お前は罪人だと、耳の奥から声がする。お前が死ぬべきだったのだと、繰り返し、繰り返し。朔の心を何度も切り裂く。
目に焼き付いて離れない、最期の瞬間が頭を揺さぶる。足元がおぼつかなくなって、湖の近くで膝が崩れた。
「幸せに、暮らしなさい。……僕がいなくても、やっていけますね?」
あの、瞬間。血の気を失って白い顔で、それでも冥は微笑んだ。
彼は最期まで朔の事ばかりだった。けれど朔は、彼の為に何を出来ただろう。
「むり、だよ……一人でなんて、やってけないよ……」
それでも後を追うことが出来ないのは、冥の行為を踏み躙ることが出来ないからだ。ここで朔が死ねば、本当に彼の死は無駄になる。どれほど絶望しても、自分で命を絶つことなど出来なかった。
俯いて身体を縮めた朔の耳に、草を踏む音がした。今となっては朔以外が訪れることのない筈の場所で起こった音。無意識に彼の存在を期待して振り返った朔が見たものは、ひたすらに白い存在だった。
彼でないことに落胆して、神の御使いだと、一瞬、本気で信じた。
―――裁きを受ける時が来たのだと、歓喜した。
2010/08/19