「・・・入内ですか」
満月の美しい夜空を見上げて、父親と酒を飲み交わす。親子水入らずという時間帯。口に運ぼうとした杯を元に戻した。言葉に出てきた「入内」というのは女の最高の栄誉だ。国の支配者の妻になれることが何よりの幸せ、らしい。
「嗚呼、昨年即位したばかりの帝のもとに入内するらしいぞ」
彼女が大人入りしたのは貴族の娘の中では遅い方だった。その後、大人入りした彼女のもとに結婚話はいくつも舞い込んだ。だが、昔から病弱だった彼女は結婚話を断り続けた。病弱ゆえに子供―後継者―を生む体力はないから、という理由で。しかし、今回はこの国を治める帝からの申し出を無下に断ることは出来ない。
「何故、彼女なのですか」
確かに彼女の家は都の中でも血筋の高い家である。しかし血筋は高いものの、身分は釣り合っていない。それは代々出世欲に乏しく、自分の趣味を貫くような風流を好む傾向がある。だから彼女の家の者はのんびりとした性格で和歌や笛などの才に恵まれた方が多いらしい。そんな彼女の父親は朝廷の中でも血筋を考えたうえでの相応しい身分より下の身分―中流貴族がなるような身分―でいる。帝という高い身分の方と中流身分の者が関わることはめったにない。
「帝がまだ東宮でいらした時に市内へ行きたいと仰せられて行かれたらしい。しかし、途中で具合が悪くなり、そうこうしていると彼女の父上が通りかかって邸に連れて行ったのだと。その時、気分転換にいう慰みにお話し相手になったのが彼女だったという。お話しているときに、ちょうど彼女の顔が垣間見えた、のだと。憂いを含んだ眼差しや自分を気遣ってくれた穏やかな声音が忘れられないとおっしゃってね…」
私は人から聞いた言葉を紡ぐ父親の顔が急に憎らしくなった。父親ではない。無意識に思い描いた帝の顔が父親と重なって私を苛立たせる。紛らわすために手元の杯を手にとって、一気に酒を煽る。父が同僚からもらったというこの酒は普段の私ならば、口当たりが程よいこれを瓶ごと飲み干したに違いない。酒が喉から体内に入る感覚が苛立つ感情から少し逸らさせてくれるが、今の味は最悪だ。
「父上、失礼しますっ」
急にそう言って、その場を去った自分の背中から呼ぶ声がするが聞こえない。あのまま居たら、何の罪もない父親に向かって拳が飛んでいただろう。床を音がするほどに力一杯踏んでいく様を女房たちが何事か、と見てくるが気にならない。自分の対に着き母屋に入り、腰を座らせる。
忘れられない。ただそれだけの思い。
「私とて同じこと…っ!」
行き場のない想いを抑えるように、手を強く握る。
裳着を境に終わりを告げられた幼き日々。 巡る巡る記憶。
貝合わせ、絵物語、囲碁、和歌、琴、蛍、桜、茜色の空、星々…。
多くのものを共有した彼女を簡単に忘れ去ることが出来ない。困ったときに俯く仕草や私を呼ぶ声、病弱で蒼白な顔も、小さな手も全て愛しいと思ったのは彼女だったから。
『私も好き』
幼い頃の少女が言った言葉が大人になった現在でも鮮やかな響きを持ったまま、胸に響く。記憶の中の彼女は幼い。裳着の後、彼女とは御簾越しにしか会ったことがないのだから、どんな風に成長したのか分からない。けれども、帝の目を一目で射止めたくらいなのだからきっと美しくなっているだろう。
忘れられないのは、私も同じ。帝と同じ想いなのに、どんなに彼女が愛しくても手に入らない。今すぐ会いに行って、私だと名乗って、彼女を抱きしめて、話をしたい。ずっと私が生きてゆく限りなく、そうした時間があるならと願ってしまう。
「……」
彼女の名を呟く。聞こえるはずのない、答えてくれる声が脳裏で弾ける。記憶の中の彼女が「何?」と柔らかな笑顔で笑う。 私の気持ちを彼女は知らない。幼馴染の男が自分を想っている、のだと。誰も知らない。誰にも話したことがないのだ。幼馴染の娘が忘れられない、のだと。
「これからも・・・ずっと」
誰にも知られなくて良い。想いの矛先である彼女にも。知らぬ帝に嫁ぎ、帝に愛されて生きていくといい。手が届かないところへ行って、私に忘れさせてくれたらいい。そうするしか私には術がないのだから――……。
fin.
かりこもの 思ひ乱れて 我が恋ふと 妹知るらめや 人しつげずは
【訳】私の心がどうしようもなく思い乱れていることなど、人が告げない限り、あなたは知らないんだろう
( お題:負け戦様)