お題 


いっそ過去になればいいのに

真っ白な銀世界。しんしんとあとからあとから降る粉雪は地上につもってゆく。粉雪と寒さを帯びた風が少女を包み込むのに寒さを感じないのは目の前の光景のせいだ。

「…?」

突然だった。都へお帰りと微笑む少年に少女は「嫌です!」と拒絶しているときに少年は少女の目の前に倒れた。倒れた少年から横腹から流される赤い献血が雪を赤く染める。一体何が起きたのか、変わらない。目の前の光景が現実だと思えない。ごう…っと雪を含んだ風が唸った。はっと我に返ってみる。

「あ…嗚呼っ!」

横たわるのは大事な人。雪を染める赤さに少女はこれが現実だとようやく悟る。少女は少年に近付くべく足を踏み出すと少女を都から迎えにきた者の腕がそれを拒んだ。

「あの者は罪人でございます!触れてはいけませぬ!」
「離し…離して…っ、行かせて!」
「いけませぬ、東宮妃様!」

東宮妃。次の帝となるべき東宮の妃で女の身では最高の幸せだと言われる身分だ。次帝の妻と言う位、美しい装束、清廉された道具、教養豊かな女房たち。殺生も飢えも合うこともない。細身の体では制止は振り切れないと悟った少女は、口走った。

「お前たち…誰に触れていると思っているの!手を離しなさい、無礼者…!」

自分の身分をこの時に出すのは卑怯だと思う。しかし、そうでもしなければこの者たちは少女の体から手を離さない。言われた者たちは言われた意図を理解したようで、ぱっと手を離した。拘束から解放された少女は血の海に横たわる少年の身体を高級な衣が汚れるのも構わずに抱きかかえた。

「綺麗だな、その恰好がやっぱり…似合うよ」

今、少女が着ている恰好が本来の少女の在るべき姿。ただただ大事にされるべきであった少女。少女は最も都で有力な貴族の親戚であった。しかし、その貴族の本家と皇族とを強固に結び付ける娘がいなかったばかりに本家に引き取られ入内させられた。少年とはまだ本家に養女になるずっと昔からの付き合いがある幼馴染だ。幼い頃から一緒にいたせいか、少年と少女は互いに淡い心を持っていて恋仲だった。

「ごめん…な」
「どうして…謝るの…?」
「ごめ…ん…」
「謝らなくていいの。そんな必要ない…!」

少年が少女に謝っているのは理由があった。少年が少女を里下がりの時に少女の邸からこの地へと逃げてきた。この何より数年前に―たまたま本家の邸に少女が来ていたのがきっかけで東宮に見染められ―東宮に直々に請われて入内し寵愛されている身だったのに。

「お兄様が…っ」

周りを見ると、少女の兄が恐ろしい表情をして少年を睨み立っていた。その手には弓矢が握られている。それは紛れもなく兄が少年に矢を射たという事実を示していた。

「可愛い妹をこんな場所まで連れてきた罰だ。この者は東宮妃を連れ出した罪人なのだから、いずれこうなる運命を早めたまで」

世間的には少年は罪人だ。東宮妃の里帰りの隙を狙って、都から連れ出した罪。少女が承諾して少年と逃げたことは権力によって事実が曲げられてしまう。ひどい、と少女は兄を見据えた。

「もう…だめだな、俺…」

口を懸命に動かして少女に話しかける少年の姿は弱々しい。命の刻限がそこまで近づいていた。霞む視界に少女の姿だけがおぼろげに見え、耳に届く音も少女の声だけだ。他に何も聞こえない。聞こえなくて良いと少年はぼんやりと思う。愛しい者に見送られて逝けるのは幸せだ。ただ少女を置いて逝くのが未練だ。

「やめ…て」

少女の頬に少年が最後の力を振り絞って手を伸ばす。触れた頬に冷たい手の温度が伝わってくる。降りゆく雪の方がまだ温かいように思えた。

「約束…守…るか…ら」

約束。ほんの二年前に二人が今生の別れだと思って交わした約束。この世で結ばれないのならば、生まれ変わった来世で共に生きようと。 少女はもう少年以外が見えなかった。しきりに少年の顔に涙が落ちる。懸命に言葉を紡ぐ少年にこれ以上、否定の言葉を言うのは少年にとって何の意味にもならないと思った少女は言いたい言葉を堪える。

一人にしないで。私も一緒に連れて行って―――!

「生き…っ、て…くれ」

少女の思考を読み取ったように少年は「生きて切れ」とそう、はっきりと呟いた。それまで虚ろだった目が光を灯したようで、じっと見つめられて逸らせない。否、とは言わせない無言の視線。少女は瞳を閉じて、小さく頷いた。

「うん」
「約束だ…」
「うん…」

少年は一度少女に優しく微笑むと力なく伸ばされた手は雪に音もなく落ちた。

「―――?」

呼びかける。

「―――!?」

少年の身体を揺すって、必死に名前を呼びかける。いつものように…名前を呼んだら「なんだ?」と不機嫌顔で言う少年はもういない。それでも何度も名前を呼ぶ。しかし、少年は静かに目をつぶったまま反応しない。

「あ…っ、うわあああ―――!」
「宮…っ」

この光景を静かに見守っていた少女の若い夫が呼ぶ声は雪に消され聞こえなかった。周りの者は何も言わずにその様子を見ていた。

「誰が罪人だと言うのです?罪人と言うなら、皆んな罪人だわ!私はただ平和な地で生きたかっただけなのに、突然都に召されて入内させられて…私の大事なもの、全部奪って…!」

雪の降る村に少女の叫び声のみが響く。再び降り出した雪の中で少年の身体に顔を伏せて少女は声を殺してただ泣いた。


fin.


■こむ世にも はやなりななむ 目の前に つれなき人を 昔と思はむ
訳:早く来世になってしまえばいい。そうすれば目の前にいる冷たい人を、過去の人だと思うことが出来るのに。

(提供:負け戦様)