短編


そのゆく末に闇を、その名に永遠の枷を

それがいつだったのか、彼は覚えていない。彼にとって時の経過など、人が呼吸をするのと同様に自然なことであった。 いつぶりかさえも覚えていないが、彼が自身の“影”を地上へ降ろしたのは久しぶりのことだった。目を開ければ、木々が覆い茂った林に彼は佇んでいた。見上げた木々の枝には葉がなく、それの代わりのように天から白い花が降っていて枝に降り積もっている。冷たい、寒いとは感じない。それは何故か、彼は理解している。 彼は木々をぬうように歩く。宛てもなく、ただ気分のままに前へと。やがて少し開けた場所に彼は出た。真っ白な雪が積もった地にぽつんと佇むように木が立っていた。 その木の下に人が居た。白い雪花とは真反対の黒色のワンピースを着た少女が木の下で小さく蹲っている。後ろから背丈を見るからにまだ幼い。防寒具を身につけていないその少女を青年は「寒くないだろうか」という気遣いも見せないまま、ただ小さい背中を見下ろす。

(…近しい者が死んだのか)

黒は死を表す喪の色。黒色のワンピースはその色から分かるように喪服だ。しかし、彼はその喪服から誰かが亡くなったと思ったわけではない。少女の気が死特有のものを纏っていたせいだ。 少女はくるり、と彼の方へ振り返った。少女の迎えでも来たのだろうか?と彼は思うものの、周囲に自分と少女以外の気配は感じない。

「……おにいちゃんがおかあさんがいっていたひと?」

少女は目元の滴を拭うとそう躊躇いがちに言った。一歩歩みよると彼は少女を見下ろし、少女もまた深藍の長袍に身を包み、漆黒の髪を後ろで括った自分と同じように雪景色には似合わない彼を見上げる。

「それは私のことか?」
「うん」

確かにそうだ。何より自分が理解している。けれども彼はこの目の前のことが受け入れ難いものだった。自分の姿が視え、声が聞こえる事実が。

「私が視えるのか」
「うん」

大きく頷き返す様子はまだ本当に幼い。少女はまた一歩彼に近付いて、じっと仏頂面の彼を見上げる――――と何か納得したように表情を綻ばせた。

「おにいちゃんはおかあさんがいっていたひとだね」
「おかあさん?」
「わたしのおかあさん。おととい、しんじゃったの。でもね、おかあさんがきょうここにきなさいってわたしにいったんだよ?あわないといけないって」

その言葉を聞くなり、彼は納得した。少女が言う「おかあさん」が何者だったのか、目の前の少女が何者なのか。忘れていた記憶が目の前の事実と合わさってゆく。

「おなまえは?」
「私の名…?…私個人を指す名はない」
「ない、の?」
「ああ」

彼には名がない。彼の役目上の名称があれど、彼個人を称する名はない。それで彼は別に困ることも哀しむこともなかった。彼以外の者が彼に求めるのは彼個人ではなく、彼の役目。彼も自分の役目を重々理解していた。

「じゃあ、つけてあげる。これからさみしくないように」

少女はにっこりと微笑んだ。あどけないその笑みは大抵人に笑みをもたらすだろうが、彼は例外のようで無表情のまま少女を見下ろしている。言葉に出された“さみしい”という感情も彼は自身にない名と同様に感情も無意味だと思っているからだ。

「おにいちゃんのなまえは―――だよ」
「――?」

与えられたのは真名。発せられた言葉が耳に届くとともに、それは彼の中へ染み込んでいく。けれど、この名結びと称される儀を受け入れたわけではない。受け入れればその真名は彼の魂に刻まれて、彼は目の前の幼い少女に彼を構成する全てを縛られる。真名とはそういうものだ。普通ならば名付けられれば意思とは無関係に受け入れられ縛られるものの、彼は例外だった。だから、こうして縛られずに済み受け流す。けれど、彼は少女に名結びをされたことで一生、その真名を拒絶する枷を負った。

(…まあ、いいか)

枷を負っても、受け入れなければ済む話だ。自分の全てを少女に制約されるなど自分が許さない。

「みんなにおなじようにじかんをくれるから、そのなまえ」

少女ははにかむようにそう告げる。その意からして、彼の役目を理解しているらしい。きっとお母さんという人物から聞いたのだろう。だからその名に役目の意味を盛り込んだ。彼は少女の目線に合わせるように腰を低く屈めた。

「礼に教えてやろう、天に還った私の縁の娘」

自分に負った枷の礼に与えよう これが少女の行く末だ。生まれてからすでにくだされている、足掻いても無駄な未来。

「その身が十八を迎えるとき、私がお前を殺すだろう」

言った言葉の意味をこのとき、少女は幼さゆえ理解できずただ「うん」と頷いた。 彼もこの時点で知らなかった。このとき受け入れなかったこの名が後に彼に大きな変化を齎すことを。ただ今は二人の間に静かに六花が舞い散ってゆく。


(了)  


written by 恭玲 site:願い桜