息を吸うのがこんなに辛いなど少女は知らなかった。息を吸うのが辛い要因の一つは現在、少女が人気のない校舎を懸命に駆け回っているからである。
(…此処なら…大丈夫っ)
やっと見つけた安息の場所は体育館の備品が無造作に置かれた薄暗い倉庫。長い間人が入ってきていないのか、多少埃っぽいが気にならない。少女は倉庫のドアを慎重に閉めて備品をかけわけながら奥へと進み、マットと飛び箱の間に出来た隙間に座り込んだ。
(此処なら見つからない…きっと大丈夫)
薄い闇の中、息を殺す。さっき此処に入る前に見た腕時計の示す時刻は約束までの時を残すところあと十分をきっていた。
(息が…苦しい)
息を吸うのが辛い最大の原因はきっと今、自分を探す年下の少年のせいだ。 図書委員である自分が図書室にいる際に、最近絡んでくるようになった子。頭がすごく良いらしく中学生でいるにも関わらず、外国で飛び級を活用しすでに大学卒業までした、という天才少年は読書好きゆえに蔵書数豊かなこの高校の図書室に出没するようになった…らしい。
(ただ話をしたり、お菓子を食べたり…しただけなのに…)
蔵書数豊かと言えど、利用者は少ないのが現状である図書室で同じ時を共有しただけの仲。その時は一ヶ月にも満たない。ただ二人とも本好きで意気投合し世間話を交わしたり、時々勉強を教えてもらっていただけだったはず。
(どうして私が…)
こんな場所で膝を抱えて座っているのだろう。それは全てあの少年のせい。短期間に幾たびの少年が向けてくる好意をずっと無視し続けた罰だ。 『時間内に見つけ捕まえたら、貴女は僕のものですよ』 今日、少年はそう少女に課題を出した。この校舎内で鬼ごっこをしましょう、と。捕まえられたら、少女は少年の望みのまま。ただし少女が逃げ切ったら――……。
『僕は必ず、捕まえますよ』
決意ではなく、それは自信に満ちた肯定。
(私を捕まえないで)
捕まえないで、触れないで欲しい。そっとしておいて欲しい。真っ直ぐな感情を向けられても、どうすればいいのか分からない。きっとこのまま終われば、息を吸うのは楽になれるはずだ。
(でも)
自分がこのまま逃げ切ったら、もう少年は少女の前に姿を現さないと約束した。
(寂しい…なんて思うのは矛盾すぎる)
どこかで、あの時を失うのは惜しいという声がする。長期休暇中の貴重な時を。 決して、少年が嫌いではない。むしろ、大事な存在にかわりつつある。けれど向けられる感情は自分にとって未知であるゆえに、不安がその存在を誇張するようにゆらゆらと揺らめくのだ。自分の中でいくつもの感情が混ざり合い、波をたてる。
(…捕まえ…)
その言葉の続きは否定なのか、肯定なのか。考えど考えど堂々巡りで、自分でも分からないのが事実。
(…扉が…)
がらがら…と扉を力任せに開ける音が倉庫に響いた。誰?と思うが顔を上げず、身体を縮ませる。扉を開けた人物は薄暗い闇を見つめ、こう一言告げる。
「さあ、鬼ごっこは終わりですよ」
闇に溶けた声は数秒後には事実となって、少女は全て少年に捕らわれるだろう。こうして鬼ごっこは終わりを告げるのだ。
fin