「ただいま」
八階の一番端の部屋が、伽夜が住んでいる場所。鍵を開け、中に入ると真っ暗で帰りを迎えてくれる人はいない。慣れた手付きで壁に手を滑らせ、明かりをつける。内鍵は全部で三つ。上から鍵を閉め、靴を脱ぎ明りをつけて奥のリビングへと向かう。
十畳ほどのリビングにはシンプルなデザインの家具が揃えてある。白いアールソファがL字に置かれ、それとテーブルを挟んだ向こうにプラズマテレビがある。入り口から右手前がキッチン、そしてその前がダイニングルームだ。ダイニングルームのテーブルにはラップがかけられた皿がいくつか置いてあった。それらに寄り添うように一枚の白い紙が置いてあった。
『温めて食べて下さい。御父様から電話がありました。いつものように口座に振り込んだということです。充』
見慣れた家政婦の字だった。いつも料理の横に手紙を残して行く。それが義務なのか、好意的なのかは分からない。家政婦は四十歳くらいの女性で充 という家庭的な人だ。充は平日には七時前から来て十六時に帰る。だから平日では朝のみしか会わず、こうやって夕方帰ってきてもひとりだ。
「…冷たい」
ラップがかけてある数品から一品だけラップを外して、肉じゃがのじゃがいもを摘まんでみた。じゃがいもは外の寒さと同様にもはや、冷え切っている。それをキッチンに行き皿ごとレンジに入れ、時間表示のダイヤルを合わせると、独特の音を発し始める。
「着替えようかな」
レンジにかけた時間内には普段着に着替えられるだろうと判断して、玄関から一番近い部屋である自分の部屋に行くために再び廊下に出た。
がたっ
それは突然、聞こえた。歩んでいた足を止め、今通り過ぎたばかりのドアを見つめる。
「何…?」
がたがたっ
ドアの向こうで音は鳴り続ける。伽夜はじっと音が聞こえるドアに静かに歩み寄ってみる。
「…泥棒…?」
その部屋は伽夜の父親の部屋である。父親は此処には帰っていない。今、家にいるのは伽夜だけだ。それなのに、音が聞こえるということは向こう側にはひょっとしたら泥棒がいるのかもしれないという可能性が脳内によぎる。
がたっ…がたん
息を殺し、ドアの部に手をかけゆっくりと引いてみる。
「やんだ…」
部屋に入るなり、不審な音は止まった。ドアの位置と対象にある窓に視線をやるが鍵はかけてある。
「…」
ゆっくり部屋に足を踏み入れ、辺りを見渡す。長く主が帰っていないこの部屋は綺麗に保たれている。きっと充が小まめに掃除してくれているお陰だ。視線の先の棚は伽夜の身長より大きく四段に分かれてどの棚も本で一杯だ。しかし、視線を上向きにすると上から二段目に一冊分の隙間が空いていた。
「なんで…」
そのまま視線を下げれば、床にアルバムが落ちてあった。
「…」
拾いたい気持ちがあるものの、アルバムに触れたくなかった。この部屋の棚にあるアルバムを伽夜は見たことが無い。アルバムに収められている写真はいずれも記憶を失くす前のもので、正直見たくない。見たとしても悲しいことに自分はその時の記憶がなく、きっと空しくなるだけだ。だから、随分前に記憶を失くす前の写真は伽夜の生活範囲から外れたこの場所に集められて眠っていた。
ぱた
「!」
その時、アルバムのページが勝手に捲り始めた。それは誰かが何かの写真をじっくりと探すような様子で静寂な部屋に捲る音がゆっくりと響く。 伽夜は辺りを見渡した。窓は鍵が掛けられているし、ドアは固く閉ざされている。部屋の中にはアルバムのページを捲る要因はない。たださえ、アルバムのページは一ページ一ページが厚い。それを捲るには突風若 しくは人の手のみ。伽夜はただそれを凝視するのみだった。
*
「……」
ぱたぱた…と、ページは捲られてゆく。非科学的な現象を目の前にしているが、不思議と恐怖は無い。
「あ」
数分経ったのだろうか。やがて、ページを捲る音が止まった。数メートル先にはアルバム。自分の空白の記憶。向かい合っているだけなのに、何故か心臓はうるさい。
(見たくない、拾いたくないけど)
拾うのならば、開けられたページを見なくてはならない。アルバムなど見たくないのだ。きっと空しくなるから。
(でも…っ。今、見ないと後悔する気がする…)
そんな気持ちが胸を満たしていた。 『今』見なければ、もう一生そんな気持ちにはなれない。『今』見なければ、人生の何処かで自分は後悔してしまう。 ごくん、と唾を嚥下 し、アルバムとある程度距離を保って覗き込む。
「……」
見開き二ページに貼られている写真。日付けは今から九年前の秋。記憶喪失になる約一年前。紅葉が見事なイチョウの木の前でパジャマを着た幼い少年と幼い少女が仲良く寄り添って、嬉しそうにそれぞれの左手をカメラに向けて映っている。
「これ、指輪!?」
幼い少女は紛れもなく自分自身。幼子二人が向けた手の指には、伽夜が首に掛けている指輪がはめてあった。
「この子…」
昨日の記憶と重なる。幼いが面影がはっきりとある。
「!」
写真の下に貼られていた紙。ハート型に模した赤い画用紙にマジックでその文字は綴られていた。
『婚約証明書。私たちは十八歳になったら、結婚します。天見明、古嶋伽夜』
名前の部分は幼児特有の字で悪筆ながらも何とか読める。それら以外の字は大人の字で、きっと幼子二人のためにこの紙を作ってくれたのだろう。
「あの子…私の婚約者だったんだ」
昼休みの父親との電話。婚約指輪。告白してきた少年。
『好きだよ、ずっと昔から今からも。…たとえ、僕を覚えていなくても』
少年が悲しそうに微笑み、そう言ったのは、自分が少年のことを覚えていないからだ。きっと少年は自分が記憶喪失になった後も自分を想ってくれていたのだ。だから、あの日少年の記憶を覚えていないのにも関わらず告げに来た。そして、死んだのだ。
「み…なければ良かった!」
少年を覚えていないのに、悲しみがあふれ出す。アルバムを乱暴に閉じて伽夜は冷たい床に座り込んだ。
「どうして…、記憶がないの!?なんで、何も思い出さないの!?」
思い出していれば、あの少年の未来は違ったのかもしれない。記憶があれば。あの頃の記憶があれば良かったのに。
「明…明、明、明。明。…天見明。………っ?」
目を瞑り、自分に言い聞かせるように少年の名を呟いた時だった。ずきんっと頭に痛みが走る。後頭部をおもいっきり叩かれたようだ。身体がぐらっと揺らぐ。
『ねえ、泣かないで』
その声は何処か懐かしく、薄れゆく意識の中で響いた。