寒い。そんな感覚が伽夜を起こさせた。ひんやりとした空気に目覚めたばかりの身体は寒さで震えた。ぼう・・・と霞む視界に何かが映っていて、はっきりさせようと目を擦る。
「やあ、大丈夫?」
「っつ!?」
声と共に飛び込んできたのは少年の顔。伽夜は驚いて起き上がった。
「おはよ。ん、でも今はまだ夜明け前だからこんばんは、かな?」
伽夜は壁に掛けられた時計に視線を向けた。五時四十七分。時刻を確認して、再び少年に視線をやる。膝を抱えるようにして座る少年はじっと自分を見つめる伽夜を、首を少し傾げて見ている。
「き、君はこの前の!」
黒いパーカー、白いシャツ、ジーンズ姿。それが伽夜の目の前にいる少年の格好だった。少年は正解だと言うように微笑んだ。
「え・・・と、明 くんだよね?」
「うん、伽夜。僕の名前は明だよ」
「な、なんで・・・此処にいるの?だって、君は亡くなったって…」
目の前の少年が此処に居る理由が分からない。噂では少年はもはや心臓発作でこの世を去った身だ。それが実際、こうやって目の前に居るのだから信じられない。
「やっぱり噂を鵜呑みにしちゃいけないんだ。でも、部屋にどうやって入ったの?鍵だって全部閉めてあるのに」
下手をしたら、この状況は不法侵入だ。伽夜は少年と距離をとるために、座ったまま少しづつ後ろへと下がる。
「ねえ、不法侵入って三年以下の懲役又は十万以下の罰金だよ。犯罪者になりたくないなら今すぐ出て行って!私、知らないふりをするから」
ちなみに『三年以下の懲役又は十万以下の罰金』は刑法百三十条である。
「ち、違うよ!しかもなんで刑罰、詳しく知っているの!?」
この場でつっこむ場合かと言いたいがあえて伏せておく。
「そんなの生きていくための知識だよ!こんな状況に陥ったときに役立てるために。もう出て行かないなら、警察に電話するから!」
「だから、違うってば!!」
「だってこの状況でどこが不法侵入じゃないの?」
未明の女性宅に見知らぬ人(一応、少年のことは知っているが知らないのと等しい)がいるこの状態を他になんと呼べばいいのだろうか。少年はきょろきょろと周りを見渡し、思い当たったのか頭を抱えた。
「う…これってやっぱり不法侵入になるのかな?」
「私に聞かれても困るんだけどな」
「ごめんね。どーしても、こうしなきゃいけなかったんだ。けれど、これは立派な不法侵入だよ」
「ほら、その通りじゃない!えっと、携帯、携帯」
立ち上がって制服のポケットから携帯を出そうとする伽夜に、少年は同じく立ち上がり歩み寄る。近づく少年に対し伽夜は後ろに下がろうとするが、背には壁が立ちはだかっている。 前を見れば少年が伽夜を宥めようと伸ばした手が伽夜に触れようとした。…その時、伽夜の目が大きく見開けられた。
「……やっぱり…駄目、なんだ」
少年は伽夜へ伸ばした自分の掌をしばらく見ていたが、そのまま手を下ろし悲しそうに目を伏せた。
「…君は…」
見てしまった。少年が伽夜を掴もうとした手が伽夜を通り過ぎたのを――……。
「うん。僕、幽霊なんだ」
「ゆ、幽霊・・・?」
伽夜は改めてまじまじと少年を見上げた。伽夜自身、霊感などなく非科学的な存在と無縁だ。クラスメイトらが自らを霊能力者と自称するのも耳を傾けていないし、心霊番組は見るけど信じない。あくまで現実主義で通してきた。
「本当に幽霊?」
「ほら」
少年は音もなく床を蹴り、宙に浮き上がった。伽夜は唖然として少年を見上げる。
「それにね、気を抜いたら身体は透けるんだ。今は頑張っているから透けてはないけれど。でも触れらないんだ」
伽夜に自分の片手を差し出す。条件反射で伸ばした伽夜の手は少年の手を触れようとするが、煙のように掴めず触れた感覚はない。目には視えているのに触れられない。
「やっぱり高等部で倒れたのは君だったの?」
「うん、それは僕だよ」
少年は昨日と同じ白いTシャツに黒いパーカー、ジーンズ姿。お父さん座りのまま少年は波が動くように宙を漂う。
「…私を恨んで此処に来たのでしょう?さっきは生きてる人かと思って少し騒いじゃって、ごめんね」
少年は何故か固まっていた。いや、ぽかん…としていると言った方が正しいだろう。自分が合っていると思っていた行為が中々出来ず、他人がやった時に簡単に出来てしまった表情に似ている。
「何を言っているの!?僕は伽夜を恨んでもないしこっちに連れて行くつもりは更々 ないし、頼まれても絶対に嫌だよ!」
「じゃあなんで、出てきたの?」
目の前の少年が自分の前に現れた理由が分からない。あの場で逃げるように去った自分を恨んできたのではないのか。
「頼みを聞いて欲しくてね、無理やり出てきたんだ」
「無理やり?」
「伽夜の波長をちょっといじって僕の波長と合わせてみた。伽夜が僕の名を呼んでくれたおかげだね」
「へえ、名前を呼ぶことが条件なんだ」
「そうだね。あるいは波長を合わせる対象に自分を深く思ってもらうとか、かな。一番いいのは名前だよ。名前はその人の存在をあらわす全てだから」
記憶喪失の伽夜の場合、少年を深く思うのは不可能だ。だから、少年は伽夜に自分の名前を呼んでもらう方法で少年の姿を伽夜が認識出来るようにさせたのだと言う。
「あのアルバムだって捲ったのは僕だし、倒れさせたのも僕のせい。伽夜は霊感あまりないから無理やり…。ごめんね、頭痛かったよね?」
話からすると、さっきの非科学的現象と頭の痛み及び倒れたのはこれが原因だったらしい。
「ううん、今は全然平気だけど」
痛みはない。むしろ朝特有の眠気の方が勝る。固く冷たい床で何時間も倒れていたせいか、身体の節々も痛む。
「あと、勝手に家に入ってごめんね」
「あ、不法侵入のこと?いいよ。だって幽霊相手じゃ刑法なんて役に立たないもの。それで、頼みって何?」
「あのさ、僕の指輪を探して欲しいんだ」
「指輪を?」
指輪とはあの婚約指輪だろう。少年の左手の指を見れば、あの時あったはずの指輪が今はない。
「どうやら、落としたんだよね」
「落とした!?」
「あの時はあったけど、学校に興味があって入って見学してたら…気付いたらなくてさ。必死に探してたら倒れちゃた」
「なるほど。指輪がないと成仏が出来ないってわけね」
だから、もう一人の指輪の持ち主である伽夜の前にわざわざ現れたらしい。
「そんなに指輪が大事なの?」
「とーっても大事だよ!この世で二番目に大事なモノだからね」
「ちなみに一番大事なモノは?」
「内緒」
困ったように眉を下げ、唇に人差し指を当ててそう言われた。それを内心、可愛いと思ってしまう自分がいる。
(だ、男子なのにっ!)
女として悔しい自分がいる。少年はそれが分かっていないらしく、朦々とする伽夜を不思議そうに見る。
「ごめん、それで?」
「それを探して欲しいんだ。僕はこの通りの姿で実体じゃないから」
透ける身体では物は掴めない。それでは探して発見しても意味が無い。
「どうして私に?だって霊感ある子に見つけてもらった方が・・・」
「人選は伽夜しかいないよ。やっぱり迷惑かな?」
少年は伽夜の言葉を遮って端正な顔を歪ませた。肩を落とす少年に伽夜は慌てて首を振る。
「迷惑じゃないよ。でも取引はフェアじゃないとね」
「伽夜ってば案外、ギブアンドテイク主義?」
「そうじゃないの。けれど…もし見つかったら私の頼み聞いてくれる?」
「それって何?」
「その時にならないと教えない」
伽夜が言った取引の条件に腕組みをして、唸っている少年はしばらく考え込んでいた。
「僕に出来ること?」
もちろんと相槌を打つと、分かったと返され交渉はすんなり成立した。
「ところでもう一つ頼みがあるんだ」
「もう一つ?」
「此処に住んでいい?学校とかだと先に住んでる人とか居るんだ。けれどこの部屋にはまだ居ないから」
「が、学校に幽霊居るの!?」
学校に幽霊が居るなど驚きだ。怪談めいた話は未だに聞いたことがないのに居ると言うのか。もちろん、もし今までに聞いたとしても信じていない。
「うん。まあ、いるよ。幸い悪霊はいないから安心してね」
「・・・」
少年はとりあえず、悪霊は居ないが幽霊は居ると笑顔で断言した。
「それに此処は近所に神社あるから余計悪霊とか住めない土地だから立地条件いいし」
「分かった。宜しく。えーと、天見くん?」
「・・・天見くん。ねえ僕は明だから、あきって呼んで」
「明くん?」
「うんうん!そう」
伽夜から名を呼ばれた明は嬉しそうに笑った。こうして、幽霊少年・明との日々が始まった。