確かに君は此処に居た


8.日常と非日常の狭間で、私は揺れる

マンションに着いた時には、すでに日は沈みかけていた。遠く虫の音が聞こえ、風は肌寒い。マンションの廊下には各家庭の灯火が漏れ、コンクリートの床と闇を照らしている。それは伽夜の部屋も例外ではなかった。

「ただいまー」

ドアを開ければ、良い香りが伽夜の鼻を擽った。匂いからして、カレーのようだ。今日はまだ一食しか食べていないこともあり、その香りは食欲を高めるには十分効果がある。

(…草履ぞうり ?)

伽夜の後について部屋を上がる明の目に、玄関口の隅に綺麗に並べられ置いてある草履が目に止まる。確か、外出する前はなかったはずだ。

「誰かいるの?」
「うん、充さん」
「みちさん?」
「そう、充さん。色々家事をしてくれている家政婦さんなんだ」

靴を脱ぎ靴箱に入れた伽夜は廊下を真っ直ぐ行き、リビングに入る。すると、カレーの香ばしい匂いは強さを増した。

「伽夜さん?お帰りなさい。今日はビーフカレーですよ」

キッチンに立つのは、四十才くらいの女性。暗い青みがかった灰色生地の小紋柄の着物と青海波せいがいはが織られた薄桃色名古屋帯。その上から割烹着かっぽうぎ を着ている姿は後ろから見ても上品だ。

「ただいま。夕食、やっぱりカレーだったんですね。匂いが玄関まで香っていてすぐわかりました。そういえば、ビーフカレーって随分久しぶりですね」 「ええ、つい牛肉がお安くて買ってしまいましたの。それに最近、和食ばかりだったので洋食も恋しいでしょう?」
「充さんのお料理ならどれでもいいですよ。美味しいですから」

充の隣にやって来た伽夜は小皿を片手に、置いてあったタオルで鍋蓋の取手を摘んで、鍋を覗き込んだ。そして、そばにあった御玉杓子でカレーをすくって小皿に入れる。これはもちろん、味見用だ。

「・・・ん。よく煮えてる」

味見の結果、カレールーに沈む具材が良い感じに煮えているようだ。あと数分煮れば良いだろう。

「あら、それはどうしたんですの?」

野菜を刻んでいたリズミカルな音は止まり、充の視線は注意深く伽夜の膝に貼られたガーゼに注がれていた。

「学校に行っていた時に、ちょっと途中で事故に…」
「まあ!事故!?伽夜さん、今から病院へ参りましょう。ここの近くだと城大付属ですわね!あちらは救急ですから」

充は掛けていた鍋のコンロ火を止め、準備をするべく踵を返す。慌てて、充を伽夜は前に回りこんでその行路を絶った。

「いいですよ!ぶつかったのはクラスメイトだったし、それにちゃんと手当てもしましたから」

過去にこうやって怪我をして帰ってきて、病院へ強制連行された記憶がある。医者に「異常はありませんよ。すごく健康です」と笑顔で言われた時のなんとも言えない恥ずかしさを再び味わうのはごめんだ。

「本当に大丈夫ですの?痛い所は無くて?」
「大丈夫です。充さんは心配性なんだから」
「でも伽夜さん。万が一のことがあっては遅いのですよ?」
「本当に平気ですよ。このとーり、元気ですから」

元気さをアピールするために、伽夜は数回軽くジャンプして見せる。何故か、背後に居る明が笑いを堪えている声が聞こえるが、気にしないでおく。

「でしたら、どこか痛くなったらすぐ私に言って下さいね」
「はい、わかりました」
「絶対ですよ?私、伽夜さんに何かあったらお父様の秀信さんに見せる顔がありませんもの」

伽夜の父親である秀信と充は幼少の頃からの幼馴染だ。秀信が仕事でほとんど家を空ける自分の代わりに幼馴染のよしみで伽夜の面倒を見てくれと、充に頼んだのはもう遠い昔。その父親と家政婦の関係を伽夜は知らない。

「ちゃーんと、わかりました。じゃあ私、手を洗ってきますね」
「うがいも忘れては駄目ですよ」
「はーい」





洗面所の蛇口を捻ると冷たい水が一気に出てきた。早く洗わないと手が冷えきってしまうと思いつつ、ふと顔を上げる。  鏡の自分と目が合う。風が強かったせいか髪がボサボサだ。もし第三者から見れば隣に居る明のほうが女に見えるだろうな、と少しでも思ってしまった自分に少し落ち込む。

「…あれ…?」

初めて気が付いた。自分の隣に居る明の姿は映っていない。伽夜は確認のために隣を見上げた。

(…やっぱり、幽霊なんだ。…充さんにも視えていなかったみたいだし)

幽霊は鏡に映らないものなのだろうか。しかし、テレビのホラーものに出てきた幽霊は鏡に映っていた気もする。けれども今実際、鏡の中には伽夜一人だけである。

「どうしたの?」

ふわふわと宙に浮く明は確かに居て、伽夜を見下ろす。さっきからぼんやりと鏡を見つめたままだったせいか、不審に思われたらしい。視線を下げれば蛇口からの水は流しっぱなしのままで、すっかり手についた石鹸の泡は流れてしまっていた。

(・・・幽霊か…)

こうやって確かに明は隣に存在しているのに、鏡を見てその存在が映っていないのは明が存在していないような感覚が襲ってくる。それは存在の『有』と『無』との間。

「伽夜?」

自分を呼ぶ声。それが合図のようにコップに水を入れて蛇口を捻った。そして、うがいを数度行い終わって、顔をようやく上げると唇からこぼれる水を手の甲で軽くぬぐう。鏡の中の自分はなんとなさけない顔をしているのだろう。

「なんでもないよ?」

これ以上、現実と非現実の狭間の感覚に囚われないように伽夜は明に笑ってみせた。






カレーは美味しい。充は和食が得意なせいもあって、食卓にあがる品は大抵和食である。ほぼ和食だと言っても、そのレパートリー豊富であるから飽きることはない。しかし今夜の夕食は洋食が久しぶりだから、なおさらカレーが美味しく感じられる。そして充特製ドレッシングのかかったサラダも、食後のデザートもあるから完璧だ。

(……でもね…)

いつもならば進む食が今は進まない。カレーの量はまだあと3分の二くらいあるし、サラダはまだ口をつけていない。帰ってきたばかりのとき食欲はあったはずだった。

「まあ、食欲ないんですの?」

両手に洗濯物を抱えた充が伽夜の顔を覗き込む。洗濯物を畳み終えたところであるらしい。充は注がれた食器を悲しそうに目を落とし、伽夜はスプーンを掴んだまま、固まる。

「い、いえ!」
「やはり病院に…」
「大丈夫、平気ですっ!健康ですよ」
「…それとも、カレーの煮方があまかったかしら?」
「それも違います。ちゃーんと、美味しく煮えていますよ。ただ…」
「ただ?」
(…明くんが食べれないのが…なんか嫌だな)

それが食の進まない理由。伽夜と向かい側に座る本人に視線をやると、明はテレビに映ったニュース番組を見ていた。笑顔が素敵な天気予報士が明日の天気を解説している。明日も晴れらしい。自分を見つめる伽夜の視線に気づくと、明は「何?」と小さく首を傾げた。 「伽夜さん?」と 疑問を含んだ風に名を呼ばれて我に返る。充を見上げれば、ますますさっきより表情がかたくなってしまっている。これは非常にまずい。

「充さん。あ、えー…しゅ、宿題が…」
「宿題?学校の、ですの?」
「そうです、宿題です!先生が意地悪して難しい宿題を出されて悩んでいたんですよ」
「まあ、伽夜さんがそんなに悩むなんてよほど難しいのですわね」
「はい、難しいんですよ!」

咄嗟に言い繕った嘘は中々、上手くつけたようだ。しどろもどろだったのは仕方ない。それによって充が納得したようで、安心すると共に心に中で「ごめんなさい」と充に謝る。嘘をつくのはそれなりに良心が痛むからだ。

「真面目さは伽夜さんの良い気性だと思いますけれど、食事は体のためにちゃんと摂って下さいね」
「充さんが作ってくれたモノを残したりしませんよ。完食しますともっ!」
「そんな事を言って頂けるなんて作り甲斐がありますわ」

くすくすと、上品に笑いながら充は洗濯物を置きにリビングから出ていった。それを見届けると、二人のやりとりを見ていた明が充と同じ質問をしてくる。
「ねえ、食欲ないの?」
「違うよ。ただね、明くんが残念だなーって」

伽夜の言葉を聞くなり、明は話の意図を理解して悲しそうに顔を歪めた。

「ごめんね。一緒に食べられたらいいのに」
「ううん、いいの。だって私の我が儘だから」
「ねえ、美味しい?」
「もちろん!充さんは和食が得意でね、特に煮物が好き。…あ」
「ん?」

何かを思い付いたらしい伽夜は、その思い付きがとても良かったらしく見る見る目を輝かせた。

「ねえねえ、御供えは?」
「御供えって…御供え?」
「そうっ!明くんに御供えすればいいよね。ほら、亡くなった人に御供えするのと同じだもの。もしかしたら、それなら食べられるかもしれない」 「………」

伽夜の「明に御供えを」案に対し、本人である明は無言のまま複雑そうに伽夜を見ている。

「あのさ…伽夜…」
「いい考え!えーと、お酒と米と、そしてカレー…」

明の言葉を最後まで聞くこともなく早速、行動に出た伽夜は席を立ってキッチンへと向かう。思いつけば行動せずにはいられないようだ。 「………僕、仏教徒じゃなくてクリスチャンなんだけどなー」 と、頭を抱えて呟く明の声は伽夜に届くことがなかった。


written by 恭玲 site:願い桜