確かに君は此処に居た


10.1日の始まりに

「…ぃ…よ…」

遠くで自分を呼ぶ声が聞こえる。けれど、朝独特の気だるさと心地好い感覚からなかなか抜け出せなくて、答えることが出来ない。まだこのままでいたいという欲求が起きることを阻む。確かに冬の朝に温かな布団から出るのは辛いものだ。

「…起き…夜」

その声は、急かすようにだんだんと近づき大きくなる。一体、誰がこの心地良さから邪魔しているのだと言うのか。

「伽夜っ!」
「!?」

耳元で弾けた声に伽夜は一気に夢の世界から現実へ引き戻された。

「やあ、おはよ!今日もいい天気だよ」

ぼんやりとした曖昧な視界に、自分を覗き込む顔。薄茶の髪と同じ茶色の両目は数度瞬き、眉もきつく顰められていかにも戸惑っている表情だ。

(…綺麗な…顔)
「伽夜―?ちゃんと起きてる?まだ寝てるの?」

目の前に居る者の顔を伽夜は麻痺した思考のまま、そう思った。起きているのか確認のため、顔の前で手を振られるが呆然と天井の方を虚ろな目で見ている伽夜の反応は薄い。しょうがないな、最終手段だ!と声の主は元気にこう言った。

「起きないと、昔みたいにキスするよ?」
「!」

言われた言葉の意味をぼんやりとした頭が捉えた瞬間、伽夜は唖然としてようやく意識を目覚めさせた。頭の隅で、明が伽夜を起こしに来たことを理解するけれども、目の前には、近づいてくる明の顔。目を瞑っているせいで、伽夜が起きたことに気が付いていないらしい。

「…っ!?う、わわっ!」
「わっ、伽夜!?」

近づいてくる顔から回避すべく身を捩った拍子に伽夜の身体はベッドから投げ出され、どすん、とはいかないものの音をたてて冷たいフローリングの床に落ちた。その音で明は目を開け、痛みで顔をしかめる伽夜の前へふわりと舞い降りた。

「う…っ、痛い…」
「だ、大丈夫!?骨折っていない?痛いところは?」
「背中…打った」
「背中?ごめんね、僕が余計なことをしようとしたばかりに…だ、誰か呼んで来ようか!そうしようね。待ってって…あ、僕が視えないんじゃ意味がないっ!なんで、僕は幽霊なんだーっ!」

頭を抱えて、宙をうろうろと歩き回って軽くパニックになっている明を呆然と見上げる。そこまでパニックにならなくても、自分は全然大丈夫だと言うのに。ベッドから落ちて骨折するほどか弱くない。

「あ、明くん、大丈夫。全然平気よ」

どうやら運よく背中から落ちたらしい。多少痛む背中を擦りながら、伽夜は宙に浮いた明に向かって言った。すると明は空中を浮浪するのを止めて、伽夜の前に下りて座り込んだ。

「本当に痛くない?」
「うん、平気よ」
「本当に?骨に異常は…ないの?」
「もちろん、ないよ。大丈夫。ありがとう」
「そっか。なら、良かった。…おはよう。伽夜」
「お、おはよ」

実に変な気分だ。家で朝の挨拶を充以外の人で交わすのは何年ぶりだろう。数年ぶりの挨拶は少し声が裏返ってしまったものの、気分はすごく良い。
「今…何時?」
「今?えーと、8時だよ」
「8時!?」

壁にかかった時計は明の言う通り、八時を指していた。カーテンの隙間から射してくる光から今日の天気は晴れらしい。伽夜の問いに明が答えた瞬間に伽夜の表情が驚いて、明はたちまち失態をおかしたかのような表情を浮かべた。

「あ、あれ?もしかして、起こすの遅かった?ごめんね」
「逆、逆!起こしてもらうの早かったかも」

土日祝日は昼過ぎまで寝るのが伽夜の過ごし方だ。それは普段、学校があるため遅くまで眠られないためだ。

「…早い?もうお日様は昇っているのに?」
「えーと、明くんの起床時間って何時が普通なの?」
「僕?六時四十五分だよ」

嘘ー!と伽夜の驚きの声が上がる。普段の伽夜の起床時間は七時半で、伽夜にとって六時台に起きるのはとても早起きに当たる。明の時間感覚的に言えば、今の時刻は起きるのに充分遅いらしい。それだけ健康スタイルで生活していたということだろうか。

「かなり早くない?」
「そうかな。前は起床して、軽い診察して、朝御飯で、検査やまた診察…って感じだったからなあ…」
「検査って、入院していたの?」
「うん、物心ついた頃から入院していたよ」

『…心臓病だったらしいな。本当に残念だ』

入院という単語を聞いてふと、一昨日聞いた早川先生の言葉が脳裏に甦る。思えば、明が昇降口で倒れた原因は心臓発作だったと本人から昨日聞いたばかりだった。朝、目覚めたばかりで頭の中は完全に覚醒していないらしい。

「……心臓病…」
「そうだよ!心臓病。…もしかして、思い出した?」
「え。私、口に出した?」

思わず口に出してしまったらしい。期待を含んだ嬉々とした視線を明に向けられて、伽夜は即座に首を振って否定する。それを見た明は残念そうに肩を下ろす。

「…そっか…僕は原因不明の心臓病で、移植も出来ない状態だったけどね。まあ、今はこうやって健康なんだし、関係ないんだけれど」
「ゆ、幽霊って健康、不健康ってあるの…?」
「いや多分、幽霊はみんな健康だよ。そりゃあ、あまりに負の思念が強いと…足がないとか頭が割れているとか風に見かけは変わるけれどね」

幽霊=健康。実に変な式である。怪談に出てくる幽霊は明が言ったような姿になっているということは、幽霊とはある意味思念の塊かもしれない。伽夜を起こすという目的を達成した明はよいせっ、と立ち上がった。

「じゃあ僕はリビングにいるね。家政婦さんが今、ご飯を用意してるとこだから…もうすぐできると思うよ」
「分かった、ありがとう」

返事の代わりに手をひらひらと振って明はドアを通り抜けて行った。

(幽霊ってやっぱり壁抜け出来るんだ…便利だなあ)

実際見て変に感動を覚える。昨日から明を見ている限り、幽霊には物理的な障害は何もないようだ。だから物や人物に触れないのかもしれない。

「見つけないと…」

明が失くした指輪。チェーンに通された胸元の指輪が揺れる。早く見つけて欲しい、とでも言うようにカーテンからもれる光に反射して光る。

『とーっても大事だよ!この世で二番目に大事なモノだからね』

大事だからこそ、幽霊になってまで探しにきた明。早く見つけないといけないと思う。記憶を思い出せないのだから、せめて指輪は絶対見つけたいと思うのは以前の記憶があった自分の心情が残っているかもしれない。

「よしっ!」

背中はもう痛くない。一時の痛みだったから良かった。浮かれた熱を吐き出すように伽夜は勢い良く、カーテンを開けた。


 



written by 恭玲 site:願い桜