(…無いなあ)
「♪」
隣から聞こえてくる軽快なメロディーに伽夜は顔を上げた。学校に来るまでは浮いていた明は、今は隣で足をつけて歩いている。歌を口ずさみつつ、本人もきょろきょろと床や窓に視線をやって探している。ちなみに何の曲を明が歌っているのかは分からない。
「明くん?」
「ん…何だい?」
ルンルンという効果音がつきそうなその姿が嬉しそうに見えるのは気のせいなのだろうか。花をそこらじゅうにふりまくような空気を纏っている。
「さっきからニヤニヤしてない?」
「え!ニヤニヤ?…そんなにやらしい表情してる、僕?」
「やら…あー…ニマニマ、かな」
「うん、にやついていたかも。絶対にやついていたね」
頷いて肯定する明に何故という視線を送ると
「だって伽夜とこうやって肩を並べて学校の廊下を歩いているんだよ!それがもう嬉しくってね。分かる?僕のこの高鳴る鼓動が!」
「幽霊なのに、鼓動…?」
「たとえだよ、たとえ。高鳴る高揚感でもオッケー」
親指をたてて、見事ウインクをする明は何処までも陽気だ。きっと普通に健康な身体で学校に行っていたら明の周りにはいつも人が集まっただろうなあ、と伽夜は心なしそう思う。
「そんなに喜ぶことかなあ…」
「分かってないなー」
自分の前方に歩いていた明がふわりと宙に浮き、ぐっと顔を覗かれる。
(近い、近い…!)
伽夜は反射的に数歩後退する。内心、顔を近づけるのは明の癖なんだろうか?と疑問に思うものの、それについて深く思考する余裕は生憎現在は存在しない。もうすでに数度目なのだから、慣れればいいものを。
「ねえ、人の生まれる確率って知ってる?」
「確率?」
「うん。自分が自分として生まれる確率」
自分を見下ろす明の目は聞こえてくる声色と同様に穏やかだ。突然、問いかけられた質問に「そんな確率など知ってるわけがないよ」と思いつつも、ぼんやりと見上げる。
「わかんないんだね?」
「ま、まだ私、何も言ってないよ」
率直に言われた伽夜は眉を寄せた。明はその様子を楽しそうにクスクスと笑う。
「でも顔に出てる。伽夜って数学苦手だったよね?昨日、そう言っていたもんね」
言い返せない。そう、数学…理数科目は伽夜にとって苦手であり、縁のないものだ。もう文系科目を人並みに出来れば大丈夫!という変なモットーさえ最近、出来ている。
「大丈夫、ちゃんと僕が必要だったら理系科目でも文系科目でも………教えるよ」
「今の間は何?」
珍しく明が言葉を詰まらせたので聞いてみると、伽夜の視線から逃げるように明は横を向いた。口を手で覆って横を向く明の顔はほんの少し、赤みが指している。何かまずいことでも言ったっけ?と思い返すが見当たらない。
「いや、理系文系科目ときたら次は芸術科目と体育保健かなっとちょっと思ったんだけれど。後者はさすがに恥ずかしいし…ねえ?」
同意を求められて頷く余裕が伽夜にあるはずがなかった。確かにいくら相手が幽霊で自分に触れられないとしても、同じ世代の異性に(ましてや一応年頃の)保健体育を教えてもらう度胸すらないのは明白だ。そもそもタブーだろう。
「多分、明くんに身体があったら叩いていたと思うよ。私」
「えー?絶対、僕は健全路線まっしぐらに走るよ。不健全なんて健康に悪いから」
「そういう問題?」
不健全が健康に悪影響を及ぼすのかは知らないけれども、流れ的にそう突っ込まずにはいられない。
「まあ、伽夜から受ける痛みも愛がなせる事なら、甘んじて受けるよ」
「明くん!」
伸ばした手は空を切る。分かっているけれど、幽霊でも明は此処に存在しているのだ。少しからかわれた伽夜が整えるように息を吸うと、明は再び伽夜の隣に立って二人は自然に歩きだした。
「あのね、三億分の一とも二百兆分の一とも言われるくらいすごく低い確率なんだよ」
「目…目が遠くなるくらい低いんだね」
億やら兆やらの単位はニュースでたまに聞く国会のなんとか予算くらいだが、その単位が果てしなく大きいものだとはいくらなんでも理解出来る。
「そう。それに人と人とが出逢う確率を計算したらもう未知数だよ」
「じゃあ、当たり前って思ってる光景も結構、奇跡的な感じなんだ」
この両目で見ている世界は、全て奇跡的に見ることが出来ているらしい。今、廊下を二人で歩いている光景もすべて奇跡。明が明として伽夜が伽夜としてこの時代に誕生し、出会ったのも今までの出来事も全部奇跡の積み重ね。
「でも当たり前過ぎて、奇跡って感じしないなあ」
「それが普通の感覚だよ。『奇跡的な光景に晒し続けた人は本来奇跡というべき事柄に対し、当たり前という感覚を抱く』ってね」
「なんだか哲学っぽいや」
そうだね、と返事をした明は歩みを止めた。それとともに伽夜は振り返る。廊下に佇む明は何かを確信しているように噛みしめている様子だ。まっすぐ伽夜を見据えたまま、視線が穏便に何かを語る。
「でもね、僕はきっと………」
「きっと?」
その続きは何だろう、と気になる。しばらくその場は沈黙が降りたものの、西棟から聞こえるブラス部の演奏する音がさっきより遠く聞こえる気がした。
「明くん?」
問いかけるようなその声に明は振り払うように首を振ると「さあ、行こうか」と伽夜に駆け寄ってきた。向けられた笑顔がたとえ聞いてもさっきの言葉の続きは言わないだろう、と示唆するようだった。