「手を突っ込む…」
校長の話通りに行けば、この鏡に手を突っ込むと必要なものが取り出せる優れものらしい。但し使用者は愁のように非科学的なものが視えるといった者で、使用すると代わりに手を突っ込んだ者の力を吸い取られる。数日で回復するという話だが、多少躊躇われる。
『祟るよ?』
脳裏で黒い笑顔を浮かべた明が躊躇いを吹き飛ばすように、そう言った。祟られるのは勘弁だ。何せ、明は出会って間もないが相当質が悪いと本能が告げる。決意をした愁はゆっくりと左手を鏡面へと伸ばした。
(俺の必要なものは…鍵だ)
高等部の全ての部屋の鍵。それさえあれば指輪を探すもの楽になる。指先が鏡面に触れた瞬間、広がるはずのない波紋がゆっくりと大きく広がった。
「!」
受け入れられるはずのない部分は愁の左手を当たり前のように受け入れてゆく。水に手を浸したような感覚が左手から伝わってくるが、吸い取られている感覚も同時に感じる。吸い取られているのは間違いなく、自分の力だ。
「あ…っ」
指先に何かが触れた。愁は一気に手を鏡に浸してそれを手中にすると、鏡面から左手を引っ張りぬいた。鏡面は愁が手を抜いた途端、自然に広がっていた波紋が消えた。そんなことには構わずに愁は自分の左手に視線を落とす。
「…鍵だ」
広げた手にはたった一つの鍵が最初から在ったように存在していた。一つのことを無事にやり終えたのに、鼓動が速くて愁は安心感からその場に座り込んだ。
「十八にもなってみっともねえ…」
未知のことに少し緊張していたのは無理もないが、年齢からしてみっともないと愁は思う。でも、もうやるべきことは終わったのだ。
「…、少し…きつ…」
身体がだるい。重くなったような感覚がする。きっと少し力を吸い取られたせいだろう。愁は壁に背中を預け、手に入れた鍵をかざす。鉄の光が窓から入ってくる光で鈍く光る。鍵はよく見かけるシリンダー錠だ。
「…一つしかねえけど、大丈夫なのか…」
予想ではじゃらじゃらと数十本の鍵がまとめて出てくると思っていた。しかし、手に入れたのはたった一つの鍵。各教室の鍵は勿論、それぞれ鍵が違う。それをどうやって一本の鍵で開けろと言うのか。
「嗚呼、しゃーねえ。校長のとこ、行くか…」
重たい身体に力を入れて、立ち上がる。校長の見解を聞きに愁はゆっくりと階段を下り始めた。
*
職員室の扉の隣にある透明のショーケースにはメガネ、パスケース、電子辞書といった身近なものから高価なものまで並べてある。どういった経緯で此処に来たかは知らないが、持ち主が分からないこれらは高等部で見つかった落とし物だ。伽夜はショーケースの隅々まで置かれた品々に目を配る。
「……ない」
何度見ても、そこに明の指輪はない。指輪などのアクセサリーさえ置かれていない。少し期待していた気持ちが溜息と一緒に吐き出されてしまった。
「残念、ないね」
伽夜の隣で同じようにショーケースを覗いていた明が呟いた。落胆した明の声に伽夜の心が痛む。
(大事なものって言っていたんだもの。探してないのは辛いよね)
大事なものが出て来ない落胆の大きさは伽夜には想像できないが、せめて一生懸命探そうと改めて思う。たとえ同じ指輪を買ってきて渡しても、それは明にとって意味を成さない。失った指輪にだけある価値は明にとってかけがいのないものに違いない。もし、伽夜が首にかけている指輪を失ったら―伽夜自身、この指輪を大事にしている理由は明確に分からないが―探すだろう。
「あら、古嶋。休日にどうしたの?課題の質問でもなさそうね?」
考えを巡らせている伽夜に見知った声がかかった。背後を振り返ると、伽夜がいるクラスの担任の教師である渕上先生が立っていた。小柄で子供が一人居るとは想像出来ないほど細いスタイルにフットしたジャージ姿が利発な性格を垣間見れる。
「こんにちは、探し物をしていたんです」
「探し物…何か落ちした?」
素直に指輪と言っていいのだろうか。一応、校則でアクセサリーは禁止されていて発見され次第、没収される。そんなアクセサリーの部類を高等部で落としたと言えば、責められないだろうか。しかも渕上先生は風紀取り締まりの役目がある。違反者に反省文を書かせたり、毎朝渕上先生の風紀チェックが行われたり、そんなことを考えていると、隣に居る明と視線が合う。
「一昨日、部外者が倒れたって御存じですか?」
「嗚呼、生徒が少し騒いでいたわねえ。確か亡くなったんだっけ」
「その子、私の知り合いで……その子の母親から指輪がないって連絡が来たんです。指輪はその子が大事にしていたので、もしかしたら高等部に落ちていないかなーと思って…」
母親の部分は完全嘘だが、八割事実だから渕上先生にばれることもないだろう。伽夜の言葉を聞いた渕上先生は表情を曇らせて、固い声音で言葉を返す。
「それは…探してあげないとね。ちょっと落し物の記録、見てきてあげるわ」
「…あ、有難う御座います!」
落し物の記録は職員室に届けられた日時、場所、物など詳細に書いてある。意外な反応にかきたてられるように出た感謝の言葉は人少ない廊下に反響した。渕上先生は神妙に頷いて足早に職員室へ入ってしまった。
「あの人、誰?」
「担任の渕上先生。休日に出勤なさっているなんて忙しいのかな?」
受験生の担任で、推薦受験が始まり出したり、模試が一カ月に数度あったりと受験生特有の行事に対応しないとならないのだから普段から忙しいはずだ。外から職員室の様子は分からない。だが、数人の教師は部活や自身の仕事で出勤してきている者も居るだろう。
「忙しいのかもしれないね、よく分からないけれど。何の教科担当なの?」
「もう国語は全部。古典も漢文も現代文も、ね。毎回小テストあるから大変だよ」
渕上先生の授業は毎回授業に関した小テストがあり、一定の点数以下だと授業中に当てられる。これが結構、一定の点数以上をとるためには充分な予習が必要で大変だ。それを説明すると、明は「確かに」と頷いた。
「でもさ、力はつきそうだね」
「うん、嫌でも力つくね」
「何より受験生には有り難い先生だね、良かったね」
厳しいが、分かりやすいために渕上先生が受け持っている国語のクラスはどの国語の教師より成績が良い。しばらく明とたわいない話をしているとドアが開く音がして、そっちに顔を向けると渕上先生は落胆した表情で歩み寄ってきた。
「古嶋、やっぱりないわ。今のところ、指輪は届けられていないみたいよ。残念ね」
「そう、ですか…やっぱり此処にはないんですね」
「きっと大事だったのなら、本人も成仏出来ずに居るわ。もしかしたら古嶋の傍に居たりして?」
図星のことを言われて、ぎくっと身体が震える。「大丈夫、視えてないよ」と伽夜の反応を見た明がフォローを入れる。良かった、と胸を撫で下ろす。
「もし指輪を見つけたら、古嶋に言うね。探すのを頑張りなさい」
よしよしと労うように頭を撫でられる。初めてこんな行為をされる伽夜は固まったまま、されるがままでいる。 「有難う御座いました」 と一礼をしてお礼を述べると、渕上先生は「いいえ」と言って階段を下って行った。
「…明くん」
渕上先生の背中を見送る明が難しそうな表情をしていて、伽夜は小さく明の名を呼んだ。
「大丈夫?」
「うん?大丈夫だよ、僕は大丈夫。だから、そんな顔しないでよ。伽夜」
気遣ったつもりが逆に気遣われてしまった。明は優しい笑みを浮かべて、ふわりと宙に浮く。その様にもう違和感を感じないほど、伽夜は短期間で慣れてしまった。
「ごめんね、伽夜」
「何が?」
「そんな哀しそうな顔させてごめん」
哀しそう、と言われて改めて、自分がそんな表情を無意識にしていたのかと思う。むしろ、自分より明の方が大事なものが見つからなくて焦ったり、哀しんでいたりしているに違いない。それを明の言動からはあまり伽夜に感じさせない。
「大丈夫。きっと見つけるから」
男子は弱音を見せるのを嫌うと聞いたことがある。明も同じなのだろうと勝手に伽夜は推測する。隠す不安が少しでも緩和するように言葉を重ねる。
「私が見つけるから、明くんの大事な指輪。絶対、大丈夫」
繰り返す言葉で不安が緩和したら良い。そう思い歩き始めた伽夜に明は「有難う」と言ったが、少し表情を曇らせて黙ったまま、その背中を見つめていた。