幼い頃、兄は何処に行くのも自分を一緒に連れて行ってくれた。
「さあ、おいで」
あの頃は伸ばされた手はまだ白くて小さかったけれど、握れば血が通った温かさを感じた。
歩くのが遅い自分に手を繋いで兄はゆっくりと歩いてくれたし、屈んで目線を合わせてくれたり、肩車もよくしてくれた。
貧乏であった我が家は出される食事も質素なもので兄は育ちざかりにも関わらず、自分のおかずを私に与えてくれた。毎夜、兄が自身で作った話を聞かせて眠ることも当たり前だった。本当に妹想いの兄だった。
「ほら、よく見えるだろう?」
大好きな肩車。いつもより高い視界に私は怯えることなく喜んで、その広がる世界を見た。人が行き交う道、鳥が木に止まり囀る森、賑やかな人々の声――。一番好きだったのは海に沈む、緋の太陽。沈んでゆく緋色は空を染め、雲を染め、私たちも染めていた。優しくて穏やかだった。目の前の光景も、肩車をしてくれている兄の笑顔も全て。ゆっくりと流れる心地よい時間が流れていた。
なのに、何処で間違ったのだろう――?
かつて白く温かかった手は紅色に染め上げて、生命を摘み取るようになった。理由もなく無差別に人を殺めるようになった。その時から、私の優しい兄は死んだのだ。
「さあ、おいで」
優しく穏やかな声が私を呼ぶ。差し出された手を取らなければ、かつて兄と呼んだ人は何のためらいもなく今まで多くの人を葬ったように妹だった私さえ葬るだろう。でも差し出された白い手は触れても、きっと冷たい。あの頃の温かさは、とうに消えた。それでも記憶を探って思い出す、一瞬で消えさるほどに脆い想い出を私はこの人のように捨て去ることは出来ない。それが過去であろうとも、私にとっては大事なもの。 だから、私は決めた。 地に立てた剣を天に掲げて――……。
藍が紅を侵して染め上げるこの空のように、私があの人を染め上げよう。
fin.